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elken’s blog

ジャニーズとサッカーを中心にあらゆることを評論するブログ

アンチ巨人とレアル・マドリード嫌いがそっくりすぎる件

最近昭和の大衆文化というものに興味があって当時のスポーツ文化としてプロ野球の歴史を調べている。日本が活気があり国民の多くが熱狂していた大衆文化というのは今には多様化が進展した今では見られない光景であり、そのような時代に今どこか憧憬にも似たようなものを感じずにはいられない。

その中で日本人が戦後昭和の時代に特に熱狂したものがプロ野球であり自分自身ギリギリ野球中継の延長によって毎度のごとくテレビ番組がつぶれていた時代を覚えている。

そういう経緯があるため自分は野球ファンではないのだが、ここ最近当時の昭和文化を調べる事で「こうやって国内が一つのもので盛り上がっていた文化も悪くない」といういわばガラパゴス文化容認論者のようになってきている。

 

昔は昭和文化や国内完結型の文化なんて興味がないと思っていたが最近は「この頃の盛り上がりすごいなぁ」と評価し、例えばジャニーズなどではたのきんトリオの時代凄いと思ったりもしている。

日本人が一つのものに盛り上がり皆その話をしていた時代は決して悪くなく、幸せだったなと思うのである。その文脈でスポーツにおいて誰もが野球を語り、その中で全国区的人気を誇り大正義であったのが読売巨人軍である。

「王長嶋の時代」と言われてろ自分自身なんとなく聞いた事があり、どこか懐かしい時代について興味を持ちその時代について最近調べた。当時の子供が好きな物として「巨人・大鵬・卵焼き」という流行語が生み出され、日本高度経済成長期の象徴ともいえる社会現象であったらしく「こういう盛り上がりがあったのが昔の日本なんだよなぁ」とどこか憧れを感じるのである。

 

その全盛期巨人に中心メンバーとして王長嶋の2人が属しON砲と言われていた時代がありV9という9連覇を成し遂げたという歴史を最近学び、これはレアル・マドリードディ・ステファノを中心にスペインサッカーリーグを席巻していた時代に近い物があるなとも感じた。

ブトラゲーニョ、プスカシュ、そしてディ・ステファノのようにスペインでも過去のレジェンドが語られているが、日本野球の王長嶋や張本勲はそういう感覚に近い存在なのかなと逆に日本人がスペインに例えて理解した。なにせ自分はこれまで野球にほとんど興味がなくルールすら把握しておらずむしろ海外のサッカーのほうがよほど知識を得ていた。

しかしここ最近戦後20世紀の文化の魅力に触れるにつけ、そういった戦後の自由主義における大衆文化の萌芽や黎明期にどこか憧憬にも似たものを感じるのである。何もかもが多様化し小粒化し「好きな人だけが知っている状態」になりつつある中で、大衆の共通項となる話題があった時代や本当の意味での流行語があった時代に浪漫を感じる。まさにその象徴が「巨人」であり、スペインではレアル・マドリードということになるだろう。

アンチ巨人狂本

 

そしてそういった時代を支配したスポーツチームには必ず「アンチ」という存在が生まれる。読売巨人軍ならば「アンチ巨人」であり、レアル・マドリードならば「反体制」「独立運動」「反中央集権」というイデオロギーが存在する。

この2つは非常に似ており大まかに言えばレアル・マドリードと巨人に対するアンチ文化には3つの共通点が存在する。

 

1:首都を本拠地に置く大正義チームであること

巨人で言えば日本の東京、レアル・マドリードでいえばスペインのマドリードを本拠地にし、それぞれ全国区の人気を誇る。またそれぞれ「大正義」と言われ絶対的な地位や金満補強、権力を駆使したチーム運営、黒い噂などが付きまとう。そういった悪役的な巨大勢力としての魅力があり「とりあえず巨人応援」「とりあえずレアル・マドリード応援」というわかりやすい構図がある。

「巨人軍は紳士たれ」と標榜し「球界の盟主」を気取る巨人、そして「マドリディスモ」を掲げ「銀河系」を気取るレアル・マドリード、彼らはともにそのリーグの支配者のように振る舞う。橙色の巨人か白い巨人か、いずれにせよ彼らは巨人という虚勢を張りたがる。しかしその名前に恥じず圧倒的な力でねじ伏せる姿はまるで国際社会におけるアメリカのような存在であり「なんだかんだでひれ伏してしまう」というのがこういった大正義勢力の条件である。

 

2:アンチはファンよりも詳しいこと

アンチ巨人は巨人ファンより巨人に詳しい、好きの反対は無関心と言われなぜかアンチはやたらとその勢力や個人について詳しい。例えば自分は「バルセロニスタ」としてレアル・マドリードに対抗するチームのFCバルセロナのファンだがもしかしたらそのバルセロナよりもレアル・マドリードのほうが詳しいかもしれない。

何も知らないものを嫌いになりはしない、その詳細を知っているからより嫌いになるのだ。それゆえにアンチというのはファン以上に詳しいことが多い。アンチ巨人もやたら巨人について知っているし、自分自身アンチマドリーとして日ごろからやたらレアル・マドリードについて語っている。アンチのほうが詳しく語る、そういう意味でこういうアンチ文化は「歪んだ関心」によって支えられている。

例えば芸能人でも「なぜそこまでファンより詳しく監視しているのか」というアンチ活動が多いがレアル・マドリードや巨人を監視しているのは何よりもファンなのである。監視こそがアンチ文化の象徴なのだ。

巨人軍「闇」の深層 (文春新書)

巨人がプロ野球をダメにした (講談社プラスアルファ文庫)

 

3:実は「憎い敵」に強くあってほしいこと

実はこういうアンチファンの深層心理は「強い敵に抗っていたい」という深層心理が存在する。強敵に反抗したい、反体制でいたい、何かに逆らっていたいという何かへの対抗心がこういうアンチ運動の原動力である。

心の底から憎んでいるわけではないが何かへの反対活動をしたい、反対活動をしている時の情熱や昂揚感が欲しいというのがこういった運動を支える原動力である。

それゆえに盟主たる大正義チームにはむしろ強敵であってもらわなければならない、わざわざ弱小チームに対して反対運動などしないのである。野球ならば反西武、反オリックス、反ヤクルトなどあまり聞いたことがないしスペインサッカーでも反エスパニョール、反ベティス、反ソシエダなどもほとんど聞いたことがない。

弱小チームというのはアンチとしてはあまり関心を集めずわざわざ反対するまでもなく、反対されるという事はそれだけ存在感があるという事でもある。そしてその存在感がある「憎い敵」に抵抗しているからファンは高揚し面白くなる。強敵を倒すから面白く、憎らしいほど強く、そして上から目線であってほしいというのがこういったアンチ活動を好むファンの複雑な心理でもある。

 

「あんなチームなくなってほしい」といっておきながらそのチームが本当になくなってしまったらどこか寂しい、実際はそういうツンデレなのである。何も逆らう対象がなくなったらつまらない、そしてライバル対決によって競い合い成長してきた側面もある。興行とはそういった対立構図によって盛り上がり発展するものであり、対立構図が存在しないリーグは盛り上がりに欠ける。倒す理由がなければわざわざ対戦する必要もないのだ。だから人々はわかりやすい対立構図を求める。

巨人対阪神ならば東京と大阪、関東と関西の代理戦争でありレアル・マドリードバルセロナならばカスティージャ地方とカタルーニャ地方の歴史的背景も絡む因縁の争いである。大正義勢力、支配的勢力を応援する楽しみと、二番手勢力としてその中央集権に対抗する楽しみ、そのどちらにも面白みがある。

 

「嫌も嫌よも好きのうち」という言葉があるがまさにこういったアンチ活動とファン活動は表裏一体である。アンチこそが最大のファンとはよく言われるが強いチームがあるからアンチ活動も楽しく、そのチームを反骨心によってより強くなり、アンチ勢力を集めるライバルチームもファンが増えてより強くなり互いに争い全体のレベルが上がる。

日本のプロ野球があれほど昭和史を彩り、リーガ・エスパニョーラが世界最強リーグに上り詰めたのもこういったライバル対決の存在が背景にある。アンチ文化というものは決して悪い物ではなく、むしろヒールもアンチもライバルも発生しないしないコンテンツは面白みに欠け発展しない。コンテンツや興行を盛り上げるためにはわかりやすい構図が必要である、日本とスペインに共通するこのスポーツ文化の構図は文化史として研究しても面白いかもしれない。

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