elken’s blog

ジャニーズとサッカーを中心にあらゆることを評論するブログ

ハリルホジッチの言ってることがわからない奴ははっきり言って馬鹿

ここ最近の歴代日本代表監督で一番インテリジェンスがある指揮官が誰と言えば間違いなくヴァイド・ハリルホジッチになるだろう。

東欧バルカン半島のユーゴスラビア紛争を経験したハリルホジッチの考えてることというのは生ぬるい平和主義を謳歌してきた戦後日本人には絶対わからない領域にある視点がある。

彼ほどサッカーの本質を知りつくし、戦いが何か戦争に迫るレベルで知り尽くしている哲学者や戦術家は存在しない。

時に彼の戦術眼は日本人が理解できないレベルにあり、紛争の血生の本質を知り尽くしている彼の話をなぜ真剣に聞かないのか、なぜ吸収できないのかという疑問はある。

 

アルジェリア代表を率いてベスト16を達成しドイツ代表を延長戦で敗戦寸前にまで追いつめた名将を我々日本人は最初歓迎した。これほどの監督を日本代表に就任させれば未来は明るいと誰もが信じた。

ハリルホジッチ

その後のハリルジャパンは決してて順調ではなかった。

インターネットというのは「誰かが叩いている物を叩く」という同調圧力に染まる人が非常に多いため、ネット民がハリルを叩けばそれが最適解なのだと信じて同調する人が急増する構造が存在する。誰もが自分の意見を持たず、周りに流されて個人という概念が消滅しようとしている。

ハリルホジッチがワールドカップ出場を決めるまで解任論が多かったのがその典型例だろう。

現在では本田圭佑が叩かれているから自分も本田圭佑を叩いてやろうという人が多くなっていて、この国のサッカーファンは常に叩く対象を求めその場の雰囲気の"一体感"ばかりを求めている。サッカーに限らず日本人は即自的な一体感しか興味が無く個人の哲学や思想に一切興味を持たない傾向がある。

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そんなヴァイド・ハリルホジッチがこの度アイデンティティの重要性を説いたが、一体日本にどれほど「アイデンテイティ」「哲学」という近代用語を理解している人がいるのだろうかというのは疑問だ。

ハリルはアイデンテイティの重要性を説いているが、そもそも日本の大衆はアイデンテイティという言葉の意味を本質的に理解していない人が大半だろう。要するにそういう国なのだ、という村上龍の言葉が自然と湧き上がってくる。

議論ができない国民性とでもいうべきなのだろうか、誰かが叩いているものをそのまま叩いて一体感を味わえれば即自的な幸福感を抱けるというのが日本のインターネット文化になっている。

 

村上龍が「なぜ日本人は本土決戦を行わなかったのか」という疑問を呈するのであれば、自分は東欧のユーゴスラビア戦争を知りつくしヨシップ・チトーの時代を経験したヴァイド・ハリルホジッチにその時代について詳細にインタビューする記者がいないのか、そしてそのことを理解しようとするフットボールファンがいない事をひたすら虚しく感じる。

 

歴代日本代表監督の中でこれほど歴史を知り知的な本質に迫ることを語る監督ははっきりいってハリルホジッチしかいない。最も日本文化に安易に染まろうとせず良い意味で空気を読まない、それがハリルだ。

日本文化に染まり日本のやり方を継承するのであればわざわざ外国人監督を呼び寄せる必要が無い、日本の既成概念を破壊するために外国人監督を招聘している。

それをわかっていない人があまりにも多すぎる、そのことが日本のサッカー界のレベルを示しているように思う。

 

日本サッカー協会がなぜ外国人監督を招聘するかと言えばそれは先進的なサッカー文明を取り入れようとしているからだ。明治維新の時代に陸軍を近代化させるためにドイツから将校を呼び寄せ、空軍を強化するためにフランスから技術者を呼び寄せたように元来日本人は先進文明を取り入れようとする気概や知的探究心があった。

 

サッカーにおいてもデットマール・クラマーを呼び寄せ、貪欲に先進的なサッカーを吸収していた時期があった。

それが今は「なんとなく外国人監督にしておけば雰囲気が出るだろう」という時代になっている。日本人監督だと批判されるから雰囲気目的で外国人監督にしておけばいい、それがサッカー日本代表の風潮になりつつある。

 

イビチャ・オシム、そしてヴァイド・ハリルホジッチという現代において類稀なる紛争を経験した旧ユーゴスラビア出身の監督を招聘しておきながら、その話に真剣に耳を寄せようとしない国が果たして本当にサッカーにおいて強豪国になれるのかという疑問はある。ヴァイド・ハリルホジッチが主任したことの数年間が無駄になろうとしているように感じる。

ハリルが何か言えばそれを物事を否定や反論から入るような人々が一斉に批判しにかかり、その言葉の本質を考察しようとしない。これがサッカー文化なのかと疑問に思う時がある。

ハリルホジッチの言ってることはとりあえず反論してけばいいと脊髄反射的に指摘しにかかる、これが本当のサッカー文化なのかなとは思う。誰かが批判するものを同じように批判すれば即自的な一体感が味わえる、そういう個人のような個人でないような自我を持たない人が溢れている。

 

ハリルホジッチが「サッカーにおけるアイデンテイティを持て」と言ったり、イビチャ・オシムが「サッカーの日本化」を唱えてその言葉の意味を理解する人がどれだけいるかどうか。その意味が分からないのであればもはや外国人監督を招聘する意味がこれ以上あるのかどうかという思いはあるし、外国人の言う事をただ批判したいだけなのであれば最初から日本人監督を据えていればいい。

 

ヴァイド・ハリルホジッチは度々「日本でサッカーが一番人気の競技になってほしい」と語っているがハリルの発言についてメディア、そして末端のサッカーファンに至るまで詳細に考察し独自の理論を喧々諤々飛ばし合い議論する国にならなければ日本のサッカーは強化されないだろう。

サッカーは闘争だ、なぜその闘争についてこれほど簡単に考えて即自的かつ表面的な話題で済まそうとするのかという疑問を日本代表最高司令官ヴァイド・ハリルホジッチは感じているだろう。競技やスポーツを超えた歴史を含む概念で考えなければならない、その領域にサッカーはある。

文化や歴史と密接に関わりあう問題だという事をこれまでの名将は理解してきた、そのことを理解する必要が迫られる時期に来たのが今の日本サッカー界だと言っても過言ではない。

マジなトーンになってしまったけどもこういうガチなサッカーキチガウィ~wが大量にいる国が強いんだよなぁと思いながらこれからも頭のイカれたサッカートークを続けていきたいと思う。