elken’s blog

ジャニーズとサッカーを中心にあらゆることを評論するブログ

サッカーとチェスには似ている要素が存在する

サッカーはもちろん机上の空論ではなく、それは体を動かし汗を流すスポーツである。ボールが芝の上で行きかい、ぶつかり合う世界だ。

しかし不思議なことにその要素だけには留まらない奥深さがある。

よく「サッカーにはその国の国民性が不思議と現れる」と言われるが、いろんな文化や社会性、歴史的背景が反映されている側面はあり多角的視点で語れる面白さのようなものも存在する。

「サッカー哲学」という言葉で曖昧に表現することはあまり好きではないのだがフィロソフィーはこの競技において不可欠な要素だ。 

ある意味でその国のスポーツ環境から、社会構造、歴史文化、政治形態、カルチャー、国民性、その全てが反映される坩堝のような多様性がミックスされたコンテンツだともいえる。

例えば欧州にはカルチャーとしてチェスの文化が存在する、これは日本で言う将棋のようなものだ。

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この記事はそのサッカーとチェスの関係に触れた記事で非常に面白く、現在好調のレアル・ベティスの監督キケ・セティエンが高いチェスの実力を持つ愛好家だという事を記述している。こういうサッカー監督のプライベート事情というのは結構面白い話で、レーティング2000越えというのは相当強いなと驚きを感じた。

こういう欧州のリアルな情報を取材した記事は本当にサッカーファンとしてありがたく精読させてもらっている。

number.bunshun.jpm

 

前々から自分が感じていることとしてこういった頭脳系ボードゲームが好きな人は間違いなくサッカー観戦と相性がいいという事であり、自分自身チェスに最近情熱を抱かなくなったのはサッカーという代替以上の存在となる楽しみを見つけたことが大きいからでもある。

リアル厨二病時代はチェスを熱心にプレーしていた自分が今情熱を持っているのはフットボールで、将棋オタクやチェスオタク的な人たちがサッカーの魅力に気づいてくれたらなという思いもある。

数学好きのイビチャ・オシムが「サッカーに人生を吸い取られた」と語っていたが、自分自身サッカーに出会ってしまった"不幸な偶然"のせいでこのドラッグのような存在にある意味頭をおかしくさせられたのかもしれない。

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ボードゲームや数学だけでなく、軍事の指揮官や軍師に憧れる人もサッカーには間違いなくハマるだろう。

エルヴィン・ロンメル、グデーリアン、マンシュタインが好きな人はドイツ代表を見ればその精巧な電撃戦のような戦い方に魅了されるはずだ。

ナポレオン時代の天才指揮官ダヴーが好きならば、エル・ロコの変人ことマルセロ・ビエルサはその雰囲気にそっくりだ。ボードゲームファンや数学の美に魅了される人はもちろんのこと、軍事指揮官マニアは選手よりもチームの戦術や監督、アシスタントコーチの存在に惹かれるだろう。

 

欧州や南米の国々から名将や名指揮官が登場するのはチェス文化も反映されているのではないかと自分は考えている。日本においてサッカーといえば体育会系的なイメージがあるが、案外サッカーファンはそうじゃない人が多い。

日本のサッカーファンには最近のにわかアニメオタク的な人たちよりもコアでオタク気質というか考察気質の人が非常に多いと自分は感じている。マニアックな文化を求めるのであれば、かつてオタクの象徴だとされたが現在はにわか化しているアニメや声優よりもよほどサッカーの方がコアなファン層が多いと言える。

 

サッカーは当然スポーツでありリアルな現場が存在する、机上の空論ではない。

しかし同時にスポーツではない語り口を持った人も自分は必要だと考えている、なぜならばサッカーはその国の文化すべてが不思議と遠因となり反映される競技だからだ。

 

例えばゾーンディフェンスを考案したアリゴ・サッキは「騎手になるために馬になる必要はない」と語っており、自身のプロ選手経験がないという批判に応戦した。ジョゼ・モウリーニョもプロ経験が無い指揮官の代表格だ。

殊更にプロ経験ばかり重視すると新しい人材が出てこないのではないか、選手と指揮官であることは別だろう。名選手は名監督にあらず、それはサッカーでも同じだ。ディエゴ・マラドーナのフットボールマネージャーとしてのキャリアは散々たるものだった。

 

本田圭佑も自身のツイッターで現在のライセンス制度に異議を唱えているが、日本のサッカーファン全体として経験者であることをあまりにも特別視しており風通しが悪いような印象を抱かずにはいられない。

本田圭佑自身はもちろんプロサッカー選手であり日本代表の選手ではあるが、これまでサッカー経験が無かった将棋ファンや囲碁ファンが独特の視点でサッカーを語り始めたり、軍事マニア的な人が軍事理論を応用して戦術を語ることがあるならばそれは歓迎すべきことじゃないのかと自分は考えている。

 

東大や京大の数学サークル所属の学生や数学オリンピック出場経験者がそれまで興味が無かったサッカーについて分析し始めたら、並のサッカー経験者よりよほど革新的な見方を出来るのではないか。

逆にその世界に長年居なかったがゆえに斬新な視点で考察できるのではないかという期待も自分にはある。これまでのサッカーファンには存在しなかったタイプの層をサッカー界に呼び寄せられないか、そしてそれをただ単に経験者ではないという理由だけで排斥することがあってはならない。

 

サッカーファンの問題点として過度にファン歴の長さを競い合う文化があったり未経験者や"にわか"を蔑視する風潮が強すぎる風潮があったりし、大衆コンテンツであるかのように見えて敷居が高い風通しの悪さがある事も事実だ。

南米の国々はサッカーが本当に大衆文化に根付いていて商店街のおばちゃんまでがサッカー評論家の一人になっており、地域のクラブの選手をスタメン全員覚えていて持論を語りつくす自由な議論文化の土壌が存在する。

 

イケメンだから応援している女性ファンにもなんとなく風当りが強いようにも感じるし「ガチ勢しか語れない雰囲気」みたいなものが漠然とあって、やや"敷居高いコンテンツ"になっている感は否めない。

新しい人材やファン層が参入しにくく、それまでサッカー畑にいた人しか語れないような風潮になってくると停滞の入り口になってしまう。コンテンツが衰退し新規参入者が増えない構造の背景には「初心者お断り」というガチ勢が占拠する状態が散見される。

 

そう言う意味であまりサッカーのイメージが無いボードゲームや対戦ゲーム系の戦術考察好きのマニア層のような人がこの競技に興味持てばどういう分析をするんだろうなという興味はある。

 

実際サッカー経験があって長年サッカー観戦している人ではなくそれまでほとんどサッカーファンではなかったものの、センター試験では余裕で数学の満点取れるという人がUEFAチャンピオンズリーグやFIFAワールドカップの決勝を観戦したらどういう視点で見るんだろうなというのは自分が常々考えていることの一つだ。

サッカー観戦に慣れてるとついつい常識的な観戦方法になりがちで初めてサッカーを見たときのような新鮮な感覚がなくなってしまう。そして権威ある人の見方を全てだと考えてしまい自分の意見を持たなくなる。

アリゴ・サッキの「騎手になるには馬になる必要はない」理論の応用で、選手を駒と考えるような冷徹な指揮官が実は求められているのではないか。

 

実際無慈悲世代を指導した吉武博文は数学教師だったという背景があり、冒頭のベティスの監督がチェスが好きだというのも他ジャンルのエッセンスがサッカーに新しい視点をもたらす可能性があるという証左だ。

イビチャ・オシムに数学的素養があることも良く知られている。

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将棋では羽生善治や升田幸三、チェスではガルリ・カスパロフやホセ・カパブランカの棋譜を詳細に理解する人やクラウゼヴィッツの戦争論やドイツ軍の電撃戦、ソ連軍の縦深攻撃を真に理論的に把握している人がサッカーを真剣に分析した場合新しい視点が生み出されるのではないかという期待が自分にはある。

正直に言えば自分はそこまで頭が良くない、それゆえに本当にIQの高い人がワールドカップで日本代表が勝てる戦術とは何かを議論したときにどんな視点を持ち考察するのかという好奇心を抱かずにはいられない。

 

今の日本サッカー界に必要とされているのはそういった聡明な層な人々なのではないか。

現代欧州サッカー界のトレンドはまさにそういう知的レベルの高い名将が分析して作り出している部分がある。

 

日本人はそういうコアな戦術考察が好きな人が多く、自然科学におけるノーベル賞の獲得数では21世紀に入ってから南米はもちろんのこと戦術大国のイタリアやスペイン、更にスポーツだけでなく科学大国でもあるドイツよりも多い。

これだけ頭いい国民がなぜサッカーでは先進的な見方ができないのか疑問はある。それはもちろんこの競技が机上の空論だけではないという側面があることは間違いないのだが、日本人の中で知的レベルの高い層がよりサッカーに関心を持てば更にレベルが高くなるのではないかという期待も自分の中には存在する。

 

www.soccer-king.jp

 

日本ではさすがにチェスプレイヤーが分析するサッカーの戦術考察はないが、プロ将棋棋士でサッカーファンだと言う人の記事を見かけたことがありこれもまた興味深い物だった。

観戦した試合の映像をその後想像するという話や、ベッカムのセンタリングやシャビ・エルナンデスのオーガナイザーとしての動きに着目した視点は将棋ファンではない自分でも面白いと感じさせられた。

 

チェスならばビショップの鋭い動きやルークの突破力、ナイトの不規則な動きがサッカーに例えられる。ビショップがカットイン系のウィンガーならば、ルークは直線的に突破しセンタリングを狙うサイドハーフだ。

また将棋は頭脳競技のように見えて相手棋士と向かい合うメンタル面も重要な直接勝負であるとも語っている。

駒が一つの典型的な役割をするわけではなく多様なタスクを果たすという戦術論が昭和初期から語られているという事も現代サッカー論に通じるものがある。

 

もちろんボードゲームとフットボールの間に一定の類似性が見られるからと言って同列に語ろうとしているわけではない。

最大の違いは選手個々人が意志を持つか、自由に操れる駒かというところにある。

具体例としてレアル・マドリードを指揮したラファエル・ベニテスは選手から一切支持を得られることも無く軽んじられて解任されてしまった。それはジネデイーヌ・ジダンと戦術論において決定的な違いがあったからというわけではなく、それはもっと人間的な話も関わってくる問題だったことは否めない。

 

選手が意志を持たない駒のように動けば指揮官は苦労しない、そこには監督としての人間性や実績も影響を持つ。

まさに様々な要因が複雑に絡み合い一つの要素では語れないところにサッカーという競技の持つ難しさが存在する。ボードゲームと同列に語れないからと言ってボードゲームの要素が無意味ではないと言うところにも面白さがあるし、そこには当然リアルなスポーツの現場が存在する。

一つの視点では語れずより多角的なアプローチが必要である、そこにサッカーの魅力や多様性というものが存在するのではないかと自分は考えている。

コンテンツの坩堝、文化やスポーツ界の多民族国家、それがまさにこの競技に相応しい言葉だ。