elken’s blog

ジャニーズとサッカーを中心にあらゆることを評論するブログ

帰宅部でも学校内で孤立しない方法

ここに来てようやく日本の部活動が抱える問題点が話し合われる機会が増えてきた。

「ブラック部活動」という言葉が使われるようになったのはこの数年であり、それまである意味で聖域のようにタブーとして扱われてきたのが学校内におけるクラブ活動だ。

 

部活動が日本社会にもたらす影響というのは根深く、日本文化そのものとも切って話すことができないデリケートな問題である。

そんな聖域であり続けた部活動問題に関して、ここ最近ようやく踏み込んだ議論が行われるようになってきた。部活動改革という言葉は最近よくマスメディアを通じて伝わってくる。

 

日本の部活動はとにかく、練習量が多く休みが少なければ少ないほど一生懸命やっていると美化され効果的だとされる傾向がある。そしてその価値観が社会に出ても適応され、サービス残業を強いられたり有給を取ることができなかったりする。

休むことは日本において悪であり、自分を社会のために犠牲にすることは美徳なのだろうか。

 

きっと今でも部活動の理不尽さや闇の深さに悩んでいる生徒たちがいるだろう。

部活を辞めたい、辞めたくて仕方がない、でも辞められない。

そんな人々に自分は元帰宅部として「やめていいんだよ」と後押ししたい思いでいっぱいだ。

 

しかし現実はそう簡単にはいかない。

中には部活動で理不尽な思いをして辞めたいと思い、更に親が辞めることを薦めているにもかかわらず、それが叶わないというケースが存在する。

日本社会において辞めたいのにやめられないという構造的な問題は何も職場に限らず、校内という環境においても起こり得る。

 

なぜそういった問題が起こってしまうのかといえば、部活を辞めてしまえばまるで村八分のごとく校内で居場所を失うのではないかという不安があるというのが大半の理由だ。

部活を辞めることによってコミュニティから排除され、孤立するという心配が今の学生達の大きな悩みとなっている。

途中で辞めたという悪評が今やコミュニケーションツールの発達によって広く伝わるようになり、更にそれが進学や就職に影響するという問題が起きる。

部活動経験が進学や就職に関わったり、その部活動的な慣習が現実社会に今も根強く残っていたりするということも含めれば、この問題は複雑だ。

 

特に最近はスマートフォンの所有率が高まり、通信アプリ内のグループが学校内において必須という時代にもなっているし、部活動ごとにそういったグループが存在し同じ部活動仲間でつるまざるをえない状況も多い。

 

ようするに孤立したくないし、将来のことが心配だから部活動を辞められないというのが真相だ。

逆に言うと孤立せずに居場所があれば、別に部活動なんて必要ないし辞めても良いとも言える。

 

だからこそ帰宅部であっても孤立しない方法というのが今の時代必要とされているのではないか。

自分の経験がその助けになるかどうかは分からない、しかし中高6年間生粋の帰宅部であり続けた自分として、部活動に所属しない学生生活のありかたのヒントとなるものを探っていきたい。

何の役にも立たないかもしれないが、もしどこかに孤独に苦しんでいる学生がいるならば少しでも助けになりたいし、部活動に入っていなければならないという風潮にも疑問を呈したい。

日本社会はこれまであまりにも部活動を神格化し続けてきたのだろうし、部活動前提の社会構造をいよいよ変えていかなければならない時代がやって来た。

 

まず前提として自分は中学、高校とも一切部活に所属せず俗にいう帰宅部であり続けた。

もはや「帰宅部のエース」といっても過言ではなく、帰宅部でエースナンバーの10番を背負い続けたことは誇りとなっている。

授業が終わった後すぐに帰る時のスピードというのはベイルやロッベン、モハメド・サラーですら追い付けない物があり、混雑する廊下を駆け抜けるドリブルのテクニックは誰にも負けない物があった。

スピードとテクニックを兼ね備えた突破力という意味ではメッシに匹敵する才能があったと今でも自負しているし、伊達に帰宅部のエースであったわけではない。

浅野拓磨ごときが日本代表を担うスピードスターだと持てはやされる風潮は疑問であり、帰宅するスピードでは自分に追い付けないのに何を粋がっているのかとやや不満を感じている。

 

更に言えば高校時代、本来はカリキュラムに含まれていない夏休みや冬休みの補習授業が同調圧力によって出席せざるを得ないケースもあった。

そんな場合でも登校したあと秘かに帰るときの裏に抜け出す駆け引きも自信があった。

見つかれば報告される極限の状況下で、教職員というディフェンダーと駆け引きし、いかに家というゴールに帰るか、それは常に勝負の連続だった。

この窓から抜ければ見つからずに済むというわずかなスペースを見つけ裏に抜け出す、そういったディフェンスを欺く悪知恵は無駄に働いた。

インザーギ並のマリーシアを身に着けていなければ帰宅というゴールは得られない。

なお知恵を勉強ではなく帰ることに使い過ぎた結果、受験には失敗した模様

 

俳優の窪田正孝は撮影の後すぐに帰ることで共演者から驚かれるようだが、いつのまにか現場からいなくなっているという「消える動き」、これに関してだけは彼に対抗できる唯一の特技だ。

帰宅日本代表に関しては窪田正孝と自分はポジション争いができると自負している。

 

そんな冗談はともかく、帰宅に情熱をかけていた自分としては放課後どころか休日にまでやりたくない部活動をブラックな環境でせざるを得ない人たちがかわいそうだし、どうしてもやめたいなら「辞めてええんやで」と胸を張って言いたい。

 

そして部活動を辞めれば孤立するのではないかという不安に対しても、それはあり得ないと後押しをしたい。

余りにも長い前置きの後に、簡潔にその孤独にならない方法というのを主に3つ提示してみようと思う。

 

1:帰宅部であることをネタにする

2:オタクや趣味を極めろ

3:学校以外にも居場所がある

 

1つ目はまず帰宅部であることは一切恥ではないし、むしろ笑いにすれば人は案外受け入れてくれるということだ。

変に部活をやっていないことや辞めたことにに後ろめたさを感じることは無い!

自分の中学時代、田舎の学校という事もありまだ部活は実質的に全員入るということが暗黙の了解だった。今でもまだ部活は入らなければならない物だという風潮が根強い校風のところは多いのではないだろうか。

高校では受験勉強に集中するため部活に入らないという選択肢を持つ生徒は多かったが、中学では部活に入らない自分は異端児のような存在だった。

 

なぜ自分が部活動に入らなかったかといえば、それには最大の理由がある。

元々小学生時代に一時習い事をしたのだがこの時の体験が本当につらく、もうこれ以上の事はできないと感じたことが原因だ。更にそのスポーツ少年団の活動は週に2日程度の物でしかなく決して厳しいものではなかったのだが、それにすら耐えられなかった自分は中学の部活など明らかに無理だと悟った。

その結果、自分は帰宅部人生を全うすることになる。

 

現在でも学生時代部活動で何をしていたかという話になることは多く、部活動時代の経験というのは大人になってから話のネタになることは有り触れている。

日本社会において部活動経験というのは大人になってからも付いて回る。

元帰宅部としてはそれは触れて欲しくない黒歴史のような物だが、自分はむしろ積極的にネタにしている。

学生時代も別に部活動に所属していないことに対するコンプレックスはなかったし、帰宅部として堂々としていれば案外上手く行く事は多い。

部活をやっていなかった時期というのはむしろ、話のネタには困らない濃密な時間だったと言える日が来るかもしれない。

 

基本的に自分は前述の小学校時代の経験から、そこまでクラブ活動を熱心にする必要はないと考えていた。楽をしたいしもう二度とあんな経験は嫌だから、どれだけ進学や学校内の関係におけるメリットがあるが面倒で大変な物はもう勘弁だという考えか根底にあった。

人間というのは自分に合わない無理な物はできない、そのことを自分は中学進学した時点でなんとなく理解していた。

仮に自分に本当に合う部活動があったならば入っていたが、どうしても地方の中学では魅力を感じるところが無く、やりたくないのであればやらないという結論に至った。

 

どうしても日本人は何の部活をしていたか、何の仕事を今しているかということで人間のアイデンティティを評価しがちだし自分自身を規定しがちだけれども、肩書でしか判断できない人こそむしろ何もない狭量な人々だと割り切れば話は簡単だと考えることだって出来る。

「俺、私?何もしてないけどね笑」とあっけらかんとしていればいい。

ジャニーズの嵐だってトラブルメーカーで「あっけらかんでいいんじゃない」と歌っている笑

あっけらかんとしていれば意外と行けるし、そもそも部活動なんて文化があるのは世界的に見て少ない。かつての部活や今の職種、国籍、年齢、人種、こういった分かりやすい肩書で人間を判断する風習に日本人は染まり過ぎていて息苦しくなっているように思うのは自分だけだろうか。

理解しやすいものしか受け付けないという考え方の先にあるのは終わりなき対立でしかない。

 

2つ目は「オタク趣味を極めろ」と言う事で、これは今の時代に一番マッチしている手段なのではないかと思う。

自分はクラスの中心人物や人気者というわけでは決してなかった、だけども趣味で会う仲間というのはいて今でもその関係というのは失われていない。

更に言えば今の時代むしろオタクや趣味や面白い事に通じている人というのはリスペクトされ人気者になれる可能性に溢れている。

 

オタクが日陰者だった時代は終わっていて、むしろ今の時代何かしらそういった趣味を持つことが普通な時代になっている。

まだリア充文化の権威がかろうじて残っていた自分の時代ですらわりとゆるく、結構オタク趣味を持っている人が多かった。

それが今では不良が絶滅しむしろオタク文化が分かっていないといけないという時代になって、オタク的な人にとっては行きやすい時代になったし、逆に流行を追いかけるリア充文化が意識高いと思われる時代だ。

 

そういう時代だとむしろ自分の好きなことを真剣に極めている人というのは「アイツすげぇぞ」とリスペクトされる存在になってきているのかもしれない。

何かしらのジャンルに詳しい人はむしろ面白がられて必要とされる。

当時の自分を振り返って「昔の自分だいぶ浅はかだな」と今では反省しているけれども、それでもその田舎の中学の中ではレアな知識を持っている存在として、一目置かれているのか、単純にイカれてる人間と思われていたのか、とにかく良くも悪くも存在は認められていた。

 

運動部に入っている部活生もさすがに部活以外の時は自分の好きなことを息抜きとして話したいわけで、こういうときオタク的なことに詳しい奴は意外とリスペクトされる。

なぜかサッカー部のリア充と小学生時代に好きだったというガンダムの話で盛り上がったり、そもそもサッカー部の中にもオタク的な奴がいて、そいつがその内部活辞めたりなんてこともあった。

 

まして今の時代ネットが普及してむしろオタク文化が主流になっている時代、もはや男子は運動部に入っていないとダサいなんて時代でもなくなってきている。

元AKB48の島崎遥香は「野球部の汗が嫌、サッカー部やバスケ部の汗は爽やかだけど、帰宅部のほうが好き」みたいなことを語っていて、運動部=モテるリア充、という従来の価値観すら崩壊してきている。

それは昨今の俳優に求められる顔の要素の変化にも表れていて、もはや男がイキればモテる時代が終わり、そういうのが暑苦しいと見なされる時代が到来している。

今の時代一番モテるのはダンスで、かつては陰キャの象徴だった将棋が今や市民権を得つつある。

 

ジャニーズの松村北斗というメンバーが、わりとイキってる感じのグループの中で1人だけ友達少ない地味なキャラとして浮いていたら、逆にそれが人気になる時代なのでもは女子の陰キャ化も進んでいる。

汗かかない帰宅部のほうが清潔感があると感じる島崎遥香や、友達少ない方が自分のことに時間を使ってくれるのではないかと考えるジャニーズファンのように、今や女子の好みが変わりつつある。

交友関係広いアピールが逆に嫌われたり疲れたりする時代に、本当に好きな物でしかつるまない濃い人間関係が評価されているのではないか。

 

そもそもジャニオタという言葉のニュアンス時代が変わりつつある。

自分の時代はまだジャニオタといえば侮蔑的で気持ち悪いイメージだったけれども、今ではむしろ自称する人が増えたし結構おしゃれな人も増えてこちらもまた市民権を確立している。

アイドルにしか居場所が無い人という従来の感じから、むしろフツメン化が深刻なジャニーズ以上にイケメンな彼氏なんて余裕で見つけられるだろ、という人がなぜかジャニオタをやっている時代だ。

 

今の時代女子で意識高くテニス部やバレー部のキャプテンしてる人より、ジャニオタ極めてるとか、男性声優とかTWICEのこと詳しいなんて子のほうがクラスの人気者になれるような気がする。

自分の頃はまだジャニオタはガチでヤバイ奴だったし、隠れキリシタンみたいな扱いだった。だからこそあえて世間の風潮に対する反発の意識も高かったし、自分の個性やアイデンティティを強く持とうとしていたのではないかとも思う。

それほどに近づきがたく怖いジャニオタが昔は存在したので、今のジャニーズファンにも見習ってもらいたいところがある。

なおその人が今も八乙女光を応援しているかは消息不明の模様

 

部活動に入っていなければならないという価値観も変わり、これから帰宅部という道を選ぶ人も増えるだろう。

その余暇時間があれば自分の趣味を極めて、面白いことに詳しい人という地位を確立すれば居場所を得ることができる。

そしてその自分を羨ましく感じ、部活を辞めたいと思う人がいるのであれば思い切って辞めてみればいいと相談相手になることだって可能だ。

部活をやっていない自分を見て、ブラックな環境から抜け出すきっかけにしてもらえれば、それは大きな意味を持つ事にもなるかもしれない。

最初は誰もが部活をやっていたとしても、部活を辞める勇気を提示すれば同じような仲間は増えてくる。そういった小さなことから世の中は変わっていくはずだ。

 

そしていよいよ3つ目の「学校以外の居場所がある」という最後のテーマに移る。

そもそも今の時代、もう学生であっても学校以外の居場所がいくらでもあるし、社会人であっても職場以外の居場所は存在する時代になっている。

人間個人が一つの決められたい場所にいなければならないという時代は終わり、自分にあった場所をフレキシブルに柔軟に見つけ出す時代が到来している。

 

自分が帰宅部だった学生時代に起きた最大の問題といえば大きく言えば2つある。

・人間関係の変化

・生活リズムの変化

 

人間関係の変化といえば、これは小学校時代普通に学年関係なく仲良くしていたのに急に中学に入った途端大人ぶって上下関係大事にして言葉使い意識し始めた同級生に対する違和感で、これは知っている人が社会人になった時の変化にも通じるものがある。

 

そういった変貌はともかく、部活動に入っている人とそうでない人で最大に分かれる問題といえば生活スケジュールに顕著に表れる。

端的に言えば放課後や休日の使い方に違いが生じる。

 

自分が帰宅部で、周りが部活をやっているときに一番感じた変化は放課後の違いだ。

小学校まで普通に放課後は遊んでいたのに、中学になると皆部活動に忙しくなる。

ブラック部活動で問題視されているように、夜遅くまで部活動をやり、そして休日も練習に費やすということが日常になる。

 

自分は悠長に放課後も休日も過ごしているのに、かつて親しくしていた仲間は忙しく、結果的に疎遠になる。

そういう時、部活動に入らなかった人間は必然的に疎外感を感じる。

 

しかし自分はこの時一切孤独を感じることなく、むしろ人生の絶頂期とも言える昂揚感を味わうことになる。

なぜならば自分にはインターネットという空間があったからだ。

最大速度で家に帰る理由も全てはネットが目的であり、放課後も休日もネットに入り浸った。当時の自分にとっては全てが刺激的であり、何もかもが面白く見えた。

 

とにかくネットが面白すぎたから、現実の部活動という閉鎖的な社会にこだわっている他の生徒たちのことが自分には意味不明に思えた。

今では部活動での経験が後に役立つことや、それを経験していなかったことに対する後ろめたさも理解できるようにはなったが、当時は楽しくて仕方がなかった。

まして今やネットがこれだけ普及している時代に、現実に固執する必要もないと言えば嘘ではない。

 

更に部活動改革によって、学校外部の習い事なども見直されてきている。

これは地方では難しい問題ではあるし、現に自分の地元の学校では部活に変わる以上の習い事は存在しない。送迎や交通の問題も考えれば、やはり放課後同じ場所で行える部活動というものは現実的な選択肢になり得る。

 

その一方で部活動以外の放課後の過ごし方というものが今後クローズアップされれば、事情は変わってくるかもしれない。

自分のように学校が終わったら部活なんてせず、即座に帰宅してネットしてれば楽しいという生き方は10年経って理解されるようになってきた。

今の学生の中には「部活とか疲れるだけだし、さっさと家に変えてユーチューバー見てる方が面白い」なんて考え方をする層は大勢いるだろう。

 

また特に地方では学校自体が縮小傾向にあり、少子化によって廃部せざるを得ない部活動も増え、選択肢自体が狭まっている。人気スポーツにだけ人員が集中し、他は廃止となればどうしてもやりたい活動自体が無くなる。

こういう事情の中で無理に少ない選択肢に中から、それでも入部しなければならないというのはもう現代の時代に合わない。 

 

部活動以外の外部の習い事が充実していくことは理想だが、これにはまだ時間が必要であると同時にこれからの時代にとっては大きな可能性もある。

今後その形を模索していかなければならないだろうし、新しい時代の未開拓地ともなり得る。

従来の部活動以外の場所が誕生するのであれば、それは新しい人材の育成を実現し得る環境、そして市場としての価値の両方の側面を持っている。

日本のこれまでの文化を見れば、ドラマ、映画、アニメ、漫画などをみても部活動は青春であるという価値観が根強い。

しかしそういった文化面でも新しい価値観が芽生える時代になっていくかもしれない。

もう部活動だけが青春であるという時代ではなくなってきている。

 

新しい時代のクラブやサークルができても良いし、個人がもっと自分の好きな自由時間を有意義に使う事にも可能性は溢れているし、もちろんゆったりと時間を使う事も自由だ。

その個人の時間から何かが生まれるかもしれないし、今までの社会はその可能性に溢れた時間を軽視しすぎてきた。

 

 

部活動をしなければ孤立する、学生らしい生活を送れないというのは一種の強迫観念であるかもしれない。むしろ孤立しても良いし、学生らしくなくても良いけど、楽したいという考え方だってありだ。

そしてそこから新しい可能性が始まることもある。

どうも今の世の中は誰かが決めた理想像に追い付きたどり着けないことを認めない風潮があるように思うし、むしろ世間や周りの視線よりも自分自身が自分を責めてしまっているように見える。

そういったことも含めて部活動だけが問題視されているというよりも、不自由さとか不寛容さとか、その背景にある物への本質的な問題提起がようやく始まろうとしているのかもしれない。