日本のサッカー育成を考えたときに、習い事としてこれだけ普及してきたことは紛れもなく素晴らしい事でありサッカー関係者の努力の賜物と言える。
少年がやるスポーツの第一候補がサッカーとして根付いていることは本当に素晴らしい事であり、この状況が進んでいけば日本サッカーの未来は明るいかもしれない。
実際自分の近所にもサッカースクールがあってそこにはかなりの子供たちがサッカーを習いに来ている。また街中を歩いていてもネットで囲まれたサッカーコートはちょくちょく見かけるようになりバッティングセンターより見かけるようになってきている。
ただサッカーが習い事一辺倒になりすぎているという問題点もある。日本人が日常的に遊びとして楽しみ土着した文化にはまだなっていない。子供たちが何気なく遊ぶときにはまだ草野球ごっこのようなものの方が見かけるし、河川敷での野球というのは今も日常風景だ。
公園でもちょくちょくサッカーをしている子供を見かけるけども野球のほうがまだ見かけるし親子でやる物と言えばまだキャッチボールというイメージが強い。後はバスケットボールも最近では普及してきている。バスケットゴールが設置されている場所も多く、その周りには中高生が集まってよくバスケをしている。アメリカのストリートバスケのような風景がある。
それに比べてサッカーというのはゴールがなかなか無料で使える普通の空き地に設置されていなかったり、設置されていてもどうしても有料のスクール所有の物になっていたりする。フットサルも最近では大人がやるスポーツとして普及しているけどそれも有料で使用料を払ってやるものになっている。道具の貸し出しも行われそれも当然優良である。
習い事にしても有料のフットサルコートにしても、サッカーがお金を払ってやる物や、お金を払って習う物になってきている。
ブラジルでさえ最近はサッカーが習い事になってきているし、欧州はサッカー育成の最先端を行っている現状で習い事化自体を否定することはナンセンスだろう。しかし習い事一辺倒になりすぎていて文化や風土としてサッカーが定着していないことはまだ日本のサッカー文化の弱点かもしれない。
スペインやアルゼンチンではサッカーが宗教のように根付いている。そういうサッカーの土着文化、生活の一部としての側面が発達しなければ日本のサッカーはもう一段階ステップアップすることができないだろう。
習い事として整備された育成環境でやるだけがサッカーではない。
人工芝や体育館の綺麗な場所で小奇麗にオシャレにやるだけがサッカーではない。もっと荒々しく激しく、土埃に汚れた物がサッカーだ。そういった荒々しいところで発揮されるテクニックだからそれが美しい。
サッカーは温室で育てるものではないし、小奇麗でおしゃれで上品なものではない。
もっと土着した日常の一部になるべきなのかもしれない。
整備された温室の中からはルイス・スアレスやイブラヒモビッチのような選手は現れないだろう。リオネル・メッシもアルゼンチンの子供たちが狭い場所に放り込まれてもはや格闘技のようにもみくちゃにぶつかり合うアルゼンチン式のサッカーで育っている。
そのためにはもっと簡易的なサッカーゴールが普及するべきなのかもしれない。
本当はそのゴールさえも自分たちで工夫してゴールに見立てた物を作ってやるのがサッカーではある。スペースさえあれば人数や環境に合わせて独自で工夫してできる汎用性や多様性がサッカーにはある。
しかし日本人はある程度形を求める。小さなゴールだけでもあればそこでみんなでサッカーをしようという発想になる。現状そういった日常に溶け込んだサッカーゴールはあまりなく、むしろバスケットゴールのほうが見かける。
そして習い事以外の日常で遊びとしてやるスポーツとしてはまだ野球の方が強い印象を感じる。
サッカーが習い事や有料の施設でやる敷居の高いスポーツになってしまうとその普及には限界があるだろう。ストリートサッカーが普及してそこから始めてそこで頭角を現した子供がサッカースクールでより成長するという流れの方が自然だ。
そういった本当のサッカー国としてのサッカー文化が今求められているのかもしれない。