素直に疑問なんだけど、なんでソシャゲやるんだろうな。
PCゲーマーの誰もが思ってるに違いない「こんないいゲームがあるのになぜみんなソシャゲをするのか」と。
最近じゃパソコン所有率も昔に比べて下がってきてますますPCでゲームをするという事に触れる機会はなくなってきている。ネットではゲーミングPC人気が高いけど世間一般で見ればPCゲーマーというのはマニアな存在。
そんな少数派PCゲーマーの意見であることは重々承知だけど自分からすればソシャゲをやる意味が分からない。あんなの10年前のクオリティのゲームだぜ?3DSですらPS3の性能に及ばないのに、その3DSよりもゲーム機としてしょぼいのがスマホ。
それでやれるゲームってたかが知れてるわけで今更やる物でもないよなとは思う。
ただこれも結局PCゲーマーの意見なんだろうなぁ。
それまであまりゲームをやったことが無い人からすればそれで充分なんだよ。
「こんな凄い物がありますよ」って皆薦めるけど知らない人からすれば現状で十分なんだよね。自分のおかんだって今までゲームやってなかったしむしろ自分が子供のころはむしろゲームに懐疑的だった。
そんなおかんがツムツムにはまっちゃってる。バイト先のおばさんもそんな感じのソシャゲを暇な時間にずっとやってたしそういう主婦ゲーマーがかなり多い。
そういう中年女性層からすれば逆にPCでガチでゲームすることのほうが「なんでパソコンなんかでゲームするの?」って感じなんだろうなと思う。
多分そんな10万も20万もかけてPC買ってゲームすることってものすごく敷居が高いしそれでガチガチなゲームやっても何になるのって言う発想はあると思う。一昔前のネトゲだったらメイプルストーリーとか主婦層でハマる人とか多かったけど今はネトゲやオンラインゲームも衰退して残ってるのはガチゲーマー向けの難しいゲームばかりになってきてる。
つまり今までゲームをやってこなかった人としては難しいゲームやりたくないし今持ってるスマホで気軽にできるゲームの方が良いし、周りもやってるからそれで楽しいんだよね。
逆にゲーミングPC揃えて周り誰もやってない上に、しかも家でしかできないゲームってひたすら敷居の高い重い物でしかない。別に皆凄いゲームがしたいわけじゃなくて、暇だからやってるわけでゲームが人生ではない。
そういう人が実はほとんどなんだよね。そういう今までゲームをやってこなかった層を取り入れることができたからソシャゲはここまで発展した。
昔はゲーム機は全部ファミコンだと思ってたおかんを見て、ゲームの事全然知らないなって思ってたけど、今度は逆に自分がスマホでやるゲームは全部ソシャゲでよくわからないって時代になった。むしろそういうおばさん層や主婦層のほうがソシャゲに詳しい。
PCゲーマーって最近のソシャゲ事情に疎い人かなり多いはずで言葉悪いけどソシャゲのことを見下してるから知ろうと思わないんだよね。だから「全部パズドラでしょ」っていうぐらいの知識しかない。パズドラは今ちょっと古くなってきてて、それこそ数世代前の「ファミコン」でゲーム機をすべて認識してたおかんのような存在になってきてる。
だから本当に自分が世間の流行についていけなくなるのを感じる。PCゲーマーはかなり疎外感を感じてると思う。疎外感を感じてるからソシャゲやテレビゲーム、携帯ゲーム機に対して敵対的になる。自分も携帯ゲーム機はやってるから使い分けてる人は多いけど、PCゲーマー全体にPC至上主義という考え方はある。
偉大なるPCゲームという教義があって、PCは絶対神である。PCゲーマーはエリートの選民であり最先端のゲーマーである。ゲームの本家はPCであり選ばれしものである。
そういった選民思想はあるし、自分もそこに優越感を感じてないと言ったら嘘になる。PCでゲームやってる自分は偉いみたいな価値観。
ただこういう排他的なところとか、他のゲーマーの立場で考える事ができないこともPCゲーム衰退の理由なのかもしれない。「こんなに面白いんだよ」といっても興味ない人からすれば興味ない。
例えば自分が移動手段だと割り切って乗れればいいという考えで軽自動車に乗ってる時に「四輪駆動は凄いぞ」「軽自動車なんて乗り心地最悪だぞ」って進めてきてもこれで満足してますからってなるのと同じ。
十分な人にとってはそれが十分なんだよね。
そんなすごいクオリティの物も買えるならば欲しいし、薦めるならばそれを買ってくれと。買ってくれたらやりますけど、買えないですからっていうのはある。買えたとしても別の物に使いたい。それと同じことをPCゲーマーというのは言ってるのかもしれない。
パソコンでやるゲームはこんな凄いんだよっていったところでなかなか振り向いてくれない現実はある。今後PCゲーム普及のためには今までと違うもっと斬新なアプローチをしていかなければならないではないだろうか。
PCゲームの未来のためにもそういった工夫が今求められているのかもしれない。