よく南米のサッカー選手はストリートサッカーから生まれると言われている。南米に限らずオランダはストリートサッカー文化が盛んでクライフやファン・ペルシーはストリートで才能を磨き上げた。
ストリートサッカー出身者のボールタッチは独特で整備されていない場所でボールを扱う事によって培った発想力と技術が垣間見える。
しかしストリートサッカー文化は失われつつあるのも現状だ。サッカーの塾化が進んでおりサッカーはコーチに習う物になってきている。ブラジルでさえ最近はストリートサッカー文化がなくなり育成をするものになってきている現状があり現代サッカーのトレンドであるのは事実だ。現代の環境でストリートサッカーは難しくなってきている。
その一方でやはり画一的な練習方法からは抜きんでた選手が育たず世界トップレベルの選手には依然としてストリートサッカー出身者が多い。イブラヒモビッチのプレースタイルには移民街のストリートの血が流れているロナウドはマデイラ島の街中でボールを蹴っていた。
日本では部活かユースという問題があるが今欧州や南米ではストリートか育成組織かという似たような問題が議論されている。
かつてヨハン・クライフは我々の時代はストリートでサッカーをしていたので足腰が鍛えられて頑丈だったという趣旨のことを語っていた。それは古い意見であるかもしれないが同時にやはりその文化を再評価する向きもやはりある。
サッカーが単に習い事になればそこからエンターテイメントの要素が失われるという危惧がクライフにはあったのかもしれない。サッカーを習うのではなく、サッカーで遊ぶ環境ができれば、システム化された現体制では育ちにくい独特の感性を持った選手が生まれる効果も期待できる。
しかし日本において言えばそもそも失われるようなストリートサッカー文化そのものが最初から存在していないのだ。そして今から始めようにも公園は球技禁止の場所が目立ちセキリュティの問題から学校の校庭は解放されない。
この問題は日本の深刻な問題になっている。子供の公園離れ、いや公園の子供離れが進んでいる。公園が子供にとってフレンドリーな場所ではなくなってきているのだ。かといって土地が余っているような地域では子供の数そのものが少ない。
ストリートサッカー文化が芽生える土壌はかなり貧困だと言わざるを得ない。そして子供たちがサッカーをするとなれば高い月謝代を払う場所しかなくなっている。家系の問題から少年サッカーをやめさせたいと考える家庭まで出てきている。
サッカーは習い事として人気の為月謝代を強気にスクール側が取れるという事も問題の背景にある、そしてストリートでサッカーをする場所や相手も存在しない。
今日本のサッカーは高級品化しつつある。人種や階級、国籍を問わずにできるスポーツであるサッカーだが今その自由さはサッカーから失われつつあるのかもしれない。サッカーが特定の階級にしかできないものであればこの競技からはエンターテイメントが失われるだろう。名もなき場所から世界的なスターが現れるのがサッカーの良さである。
しかしながら今は整備された環境で家計に余裕のある家庭の子供しかできない高級品になりつつある。隣国中国でも子供たちはスポーツができないと言われている。一部のエリート層だけがするものであり、子供たちは勉強だけをさせられる。
日本は中国程ではないがサッカーをするとなれば学校やサッカースクールといった習い事に限られてくる。
現在12歳未満のサッカー人口が2014年から減少に転じたというデータもある。今の日本はサッカー人口が増えてるという事を手放しでは喜べないのだ。ザックジャパン全盛期の頃は確かにサッカー人気が全盛期だったこともその要因としてある。イナズマイレブンというアニメが流行り、香川真司がマンチェスター・ユナイテッドに所属していた時代で日本代表も強かったから子供たちにとってサッカーが今以上に憧れだった。今はワールドカップで負けておりサッカーアニメもあまりやってないのでサッカーに憧れる環境がなくなってきている。
その結果子供の夢はスポーツ選手からユーチューバーになってきているのだ。手放しで今の日本の少年サッカーが充実していることを喜べない現実はある。
しかしこれを子供のスポーツ離れと考えてはいけないのだ。スポーツの子供離れと言ったほうが的確だ。子供にとって遊びではなくなり習い事になれば敷居の高い物として足が遠のく。
そもそも一口にストリートサッカーと言っても何もないただのストリートではない。サッカーが盛んな国ではサッカーコートが随所にある。小さな簡易なものも含めれば膨大な数になる。エデン・アザールやメスト・エジルはそういう場所でひたすら練習し技術を磨いた。もちろんそういった場所は無料で使える。
しかし日本ではそういう場所はほとんどなくあったとしても有料で使用するものやサッカースクール用の整備されたものだ。もっと荒れた場所でもいいので簡易なゴールを設置したり網を張ってボールが外に飛ばない工夫をするなどして最低限の設備を整えて無料で開放するべきなのかもしれない。
そういった名もなき場所から育つ選手がいずれ世界のスターになる。名もなき場所も子供たちの発想次第ではカンプ・ノウやオールドトラッフォードに生まれ変わる。しかしそういった名もなき場所そのものが少なくなっているのだ
とにかく現代の日本でサッカーは高級品や敷居の高いものになりかけている。
そんな日本の恵まれた環境で育った子より、アフリカでボロボロのボールを蹴っていた子のほうが将来世界的スターになるというのは皮肉だ。
お金がなくてもできることがメリットであったはずなのにお金がなければできない高級品になりかけている。オシムは靴下を丸めたものをボール代わりにして、エトーはポリ袋に空気を入れてそれでリフティングしてた。
しかしこのサッカーの高級品化こそむしろチャンスかもしれない。恵まれた家庭の子供は月謝を高くとるサッカースクールに行けばいい。しかしそうでない子供は何とかして日本の環境でストリートサッカーができる環境を見つけ出す、周りもその場所を作ることに協力する。そう言って名もなき場所を作ってそこでサッカーの練習をすればストリートサッカーはきっと可能だ。
そして月謝代の高い恵まれたスクールでやっているに打ち勝つために懸命に練習する、貧困から這い上がりスターになるために。サッカーは恵まれた場所で育つ必要は必ずしもないのだ。整備された環境はむしろマイナスかもしれない。
今の日本は格差社会になってきてる。それがチャンス貧困を抜け出して成り上がるためにはサッカーをするしかない、そういう考えも必要な時期に来ているのかもしれない。日本人はサッカーを今まで欧州への憧れや綺麗な夢、あるいは漫画のようなファンタジーと考えすぎてきた。
例えば南米人選手がお金目的で中国スーパーリーグへ移籍することに批判も多い。しかし南米人選手があれほど凄い理由は金に執着があるからなのだ。美しい夢だけでは生きていけないし、きれいな憧れだけでは夢は叶わない。現実的に這い上がり富裕層になるための手段としてサッカーに取り組む必要性ももしかしたら出てきているのかもしれない。
この競技は神聖なものではない、もっと荒く貧困と結びついたスポーツなのだ。
今日本の子供の5人に1人が経済的ハンディキャップを抱えていると言われている。一億総中流だったころの日本では考えられない状況になっている。そういった状況はむしろチャンスなのかもしれない。
そういった家庭では指定の練習着やジャージ、そして月謝代や遠征代は払えないだろう。本田圭佑のやっているソル・ティーロも月謝代を安くしていてほとんど利益が出ていないボランティアに近い状態だが、それでも本当の貧困家庭では行かすことができないしソル・ティーロも全国どこにでもあるわけじゃない。
しかし日本の恵まれた整備された環境で育つ子供よりもアフリカでボロボロのボールをみんなで取り合って練習している子供の方が将来はスターになるのである。そう考えると日本で月謝代を払えずスクールに行けない子供の環境はむしろ有利に働くかもしれない。それこそ戦後初期に野球で成り上がったスターたちのように今の子供たちはなれるかもしれない。かつての野球選手が草野球から成り上がったように今の子供たちはストリートサッカーから成り上がることだってできる。日本人皆がある程度裕福だった時代が日本の歴史においても世界との比較においてもあまりにも特殊すぎた時期だった。
日本に新貧困層という新たな層が出現したことはもしかしたら日本サッカーに何か変化をもたらすかもしれない。しかし現状サッカーは習い事になってしまっている。今こそその発想を変えてストリートという場所に活路を見出す時期に来ているのではないだろうか。