elken’s blog

ジャニーズとサッカーを中心にあらゆることを評論するブログ

サッカー評論家にはなぜポエマーが多いのか

よく他のスポーツファンがサッカー関連の記事を読んだ時にポエムじみていると批判することがある。サッカーライターのやっていることはただのポエム書きではないかと。

有名どころでは金子達治や小宮良之、杉山茂樹などがあげられる。中身がないことをひたすらポエム調に書きあげて自分に心酔したような記事を描くのがサッカー評論家の特徴だ。

実際サッカー関連の記事は偽インタビューやねつ造インタビュー、ポエム調の雰囲気記事が多く日本サッカーにおけるジャーナリズムはサッカー先進国に比べてまだ未発達の段階だと言わざるを得ない。

偽インタビューは週刊現代がワールドカップ前に明らかにねつ造したものもあれば、巧妙に本当のインタビューであるかのように偽ったようなものまであり最近でもそれらが問題になった。

 

しかし同時に思うのである、サッカーとはただ明確な指標だけでは語れないと。

さまざまな抽象的な意見や曖昧性があるからサッカーは面白い。それらが時にポエムとなっても自分はその面白さを感じることができるしむしろサッカーは時に文学なのではないかと。フットボールは文学であり詩でありエンターテイメントでありスポーツである。

ボールを蹴る、そのシンプルな動きがここまで高度に発展した時もはやその概念は文学の領域に達する。明確な分析が無意味に思えるくらい時としてサッカーは美しい。そのように語るのもまたこのスポーツにおける文化であり、むしろそういった文化が発展していくべきなのではないかとさえ思う。

 

ポエムは面白いのだ。

実際金子達治や小宮良之、杉山茂樹に関しても批判されがちだが個人的には結構好意的に見ていてその文章を読むのが楽しみだったりする。自分自身がそのような文章を書きがちだからなのかどこか共感する部分も多くむしろ彼らのようになりたいとさえ思うのだ。

 

そして評論家やライターに限らず、サッカー選手自身も発言やインタビューが面白いプレイヤーは見ていて楽しい。

本田圭佑のビッグマウス発言や中田英寿の持論や哲学、モウリーニョの攻撃的な皮肉めいた言葉、そしてシャビ・エルナンデスのアンチフットボール発言など記者会見やインタビューにもフットボールの文化が存在する。

少なくともセルジオ越後や武田修宏に比べて面白みがある。

ただ批判だけのつまらないセルジオや武田に比べてどこかユーモアやセンスがあるのがポエム系サッカーライターの特徴だ。

 

真面目にサッカー評論として受け止めてしまうとそれらは良くないが「サッカー文学」として受け止めると非常に読みごたえがある。評論風文学ともいえるかもしれない。サッカーの評論をしているようで実際にやっていることは文学やポエムである。

 

しかし何度も言うようにサッカーというのは必ずしも明確に語れるものではなく時としてポエムや文学のジャンルに入らなければ書き表せないこともあるのだ。

それほどにこのスポーツは奥が深い。

人類が勝利や美を追求する世界がこの11人対11人の1つのボールをめぐる争いには存在する。それゆえにそこにはエンターテイメントの極致が存在し人々は感動する。

球技を超えた存在の大きさがサッカーにはあるのだ。

そのあまりに奥深い世界を文章化しようとしたときもはや明確な分析に意味はあるのだろうか、そしてそれは現実に可能なのだろうか。

 

ポエムにしなければ書き表せないのならばそれはサッカーライターとして実力がないという批判はまっとうだがすべてが明確な分析だけになってしまえばきっとこのスポーツはそのエンターテイメント性を失いつまらない物に成り下がってしまうであろう。

文学的批評さえも内包する広さがあるからサッカーは面白いのだ。

それゆえに自分はポエム評論ポエマー評論家の存在に肯定的である。

 

もちろんそれらだけの評論であってはならないし高度なジャーナリズムや分析も日本のサッカー批評において求められるが、どうじにそのことばかり追求してもいけないのだ。

サッカーはエンターテイメントである。

我々サッカーファンはその基本も基本に立ち直って考えなければならないのではないだろうか。