本田圭佑がこれまで距離を置いてきたツイッターを開始してからしばらく時が過ぎた。
当初は若干イメージと違う雰囲気があったものの、最近は徐々に使い勝手を把握してきていて「本田圭佑らしさ」が垣間見えるようになってきている。
本田圭佑のツイートが本田っぽくなってきており、ファンとしてはこういう発言を求めていたという発言が最近は多い。
「本さんはやっぱ関西弁で話してナンボなんだよなぁ」と思いながら自分は本田のツイートを楽しみにしている。
特に本田圭佑の場合ネットニュースにされることが多くツイッターを毎日チェックしていなくとも情報が入ってくるのがありがたい。
自分のツイートが逐一ネットニュースにされるという意味ではある意味で指原莉乃に近づいているかもしれない。
最初はダルビッシュ有のようにツイッター芸人になると思いきや、指原莉乃のようにネットニュースにされるタイプになったのは興味深い。
自殺問題から始まり、受動喫煙政策を既得利権ではないかと問題視し、難民問題、そしてサッカーのライセンス制度への問題提起など多岐にわたる発言をしている。
こういった発言について「サッカー以外の事に熱心になっている」と揶揄する人も多いが、影響力のある現役選手の内に発言をすることは大きな意味がある。
海外のサッカー選手を見てもフットボーラーとしての社会的責任や役割を考えた行動をしている選手は多く、「スポーツ選手はスポーツだけをしていればいい」という考えは日本的な時代遅れの考えになってきている。
「専門外の事を語るな」という風潮は世の中に停滞しかもたらさない。
ある意味で空気を読まずにタブーに切り込む人間というのが、現代の停滞した日本社会に求められているのかもしれない。
そういう人間は変化を嫌う勢力から叩かれる傾向にあるが、打たれても出て行こうとする杭が今最も必要とされている。
日本という国は効率の悪い事や無意味な規制が多く、それが停滞の要因になっているため本田圭佑のように「それ必要なのか」と疑問を呈する人の存在は重要である。
またこの社会というのは「誰が言うか」が非常に重視される国であり、同じ発言でも捉え方が変わってくる。
例えばホリエモンが「紙の履歴書は効率が悪い」と言えば反論したがりたい人の批判に晒されるが、厚切りジェイソンが同じことを言えば「外国人が言ってるのだから正しい」と皆が同意をし始める。
誰が言うかで判断している人が多い世の中において、やはり日本代表のサッカー選手である本田圭佑が発言することの意味は大きい。
いつも反対されるけど、本当に学校なんか行かないとあかんかな?
— KeisukeHonda(本田圭佑) (@kskgroup2017) 2017年8月5日
好きなら行けばいいと思うけど。
何やろ。もっと自由で良いんちゃうかな?
そんな本田圭佑が呟いたことが新たに物議を醸している。
「本当に学校なんか行かんとあかんのかな?」
この問題に関しては自分も全く同じことを思っており、本田圭佑が言ってくれたことに大きな意味を感じずにはいられない。
本田圭佑自身は義務教育を受け、高校も星稜高校に進学しサッカー部に在籍していたため自分が学校に行けなかったから反対しているというわけではない。
また自分自身もいわゆる不登校状態になったというわけでもなく、余程のことが無い限り通い続け卒業している。
そのため「学校が嫌いだから学校廃止すればいい」という理由で学校制度に反対しているわけではない。
日本は議論という文化が成熟しておらず、たいてい何らかの議題において「レッテル張り」から入ることが多い。そのため立場を明確にしておく必要があるのだが、この議論においても「学校に反対している人間は学校が嫌いな人」というレッテルが張られてしまう可能性が高い。
また特にネットに置いてはとにかく物事を否定から入る人が多く「反論したいだけの人」というのも数多く存在する。
全体の内容に一切触れず重箱の隅だけを突くような反論や指摘をする光景はインターネット上でも散見される。
レッテル張り、揚げ足取り、小さな指摘や内容に関係のない反論、これらが日本における議論の成熟を妨げている。
前置きが長くなってしまったが現在の日本の学校制度に関して疑問を持っている人はまだそれほど多くは無い。細部の改革に関しては議論されているが、学校制度そのものが必要なのかという事に関しては疑問すら持たない人が大半だと言える。
基本的に小中高の6・3・3制度に加え、今や大学進学率は50%を超えている。
この問題というのは日本においてまだ早い議論であり2,30年後にようやく着手されるテーマだと言える。
現状この問題を理解している人はそれほど多くない。
実際に本田圭佑も「いつも反対される」と言っているが、日本人はもはや学校という物は誰もが行かないといけない物であるという固定観念にとらわれている。
余りにも常識的なこと過ぎるがゆえにそこには疑問が入る余地さえ存在しない。
本田圭佑は常に常識にとらわれないことを主張しているが、日本において常識というのはまだ権威を持つ存在だ。
これまでの義務教育というのはいわば「近代国家建設」のために均質な国民を量産するという考え方によって行われてきた側面がある。
近代に入り国民や国家という概念が形成され、西洋列強に対抗するために平均水準の高い国民をそろえる必要があった。またそれはいずれ訪れる徴兵に備えた準備期間としての役割もあったのも事実だろう。
そして戦後昭和の管理教育の時代が作り出した平均的に高水準な国民を擁した日本は先進国として躍進していくことになる。実際に日本の教育レベルや識字率は平均的に非常に高い物があり、それが先進国日本の原動力でもあった。
その歴史について否定するつもりはないが、それが今の時代に合うかどうかというのが考えなければいけない事である。
「今の時代に合わないという主張=その時代を否定している」と考える人も多いためこういった問題は複雑なことになりやすい。
しかしこのやり方はもはやこれからのグローバル化時代や、ポストモダン時代において徐々に通用しなくなってくるだろう。その限界が見え始めるのが2,30年後でありその時にようやく議論がされるだろう。
現状このことに気付いていない人の方が大半であり、それゆえにこの議論では反対派が多くなる構造がある。
まず考えなければならないのがこれからの日本は超少子高齢化社会でありカナダの全人口に匹敵する3500万もの高齢者層が存在する。更に子供の数も少なくなり、「均質な国民の量産」という概念では数を揃えられなくなり衰退を免れることができない。
その文脈においてこれから考えなければならないことは、数少ない子供たちの教育の質を高め多様性を増やしていくことにある。
現状でも確かにこれまでの枠組みにとらわれない教育機関は存在するが、それらは基本的に裕福な家庭や教育熱心な家庭に生まれた子のためのものになっている。
そのため新しいタイプの教育は一般的ではなく、やはり全国津々浦々で見た場合昭和の時代から根本の部分では変わり映えの無い教育が行われている。
一部の特例を除いて誰もが当たり前に同じ義務教育を受けて同じ場所で過ごしている。
そしてそれが日本人にとっては普通の事であり、むしろそれが異常だと考える人の方が非常識な人間だと見られる。まずこの基本的な常識から変えていくことが必要であり、具体的な議論はさらに先のことになるだろう。
この問題が重要になるのは2,30年後であり今は気づいている人すら少ない。
本当に初歩的な事としてまずは疑問を呈することがスタートになる。
「学校を廃止する」「学校に行かなくてもいい」と主張すれば、脊髄反射的に誰もが勉強しなくなり教育水準が下がると反論する人がいる。
既存の学校制度を問題視することを「勉強しなくてもいい」と直結して考える人が必ず出てくる。議論において必ず出てくるのが極端な結論を自分の中で勝手に決めて、それを前提に話を進めていく人である。
実際本田圭佑のこの問題提起に関してもそういう反論が散見された。
これからその後の具体策としてどういう物が必要かというのは教育学者も含めて議論を活発にしていかなければならないが、個人的な案としては3つのアイデアを提示したい。
1:教育内容の多様化
2:少数精鋭
3:学年の廃止
まず「なぜ日本全国の子供が同じ学年に従って同じ教育を受けないといけないのか」というのが疑問の大前提になる。
例えば図工が好きな子供のために絵や工作が多い学校というのがあってもいいし、体育が得意な子供のために運動を重視した学校があってもいい。
体育が好きで授業中ほとんど話を聞かないような子でも、運動をしながら勉強できるようなシステムがあってもいい。
単に手を挙げさせて答えさせるという画一的な授業だけでなく、答えが分かった生徒が走って番号が書かれた物を取りに行くというようなクイズ番組で見かけるようなアトラクション式のスタイルがあってもいいのではないか。
どれだけ注意をしても落ち着くことができない子供は当然ながらおり、動きたいというエネルギー自体は悪い事ではない。また授業中、話を聞かず絵を描いてばかりいるような子供もいる。
しかしそういった生徒の存在が勉強が好きな生徒の迷惑になることも事実としてある。
そういった子供を住み分けさせて得意なスタイルで学習させるということがもっと当たり前になって言っても良いはずだ。勉強をしたい子は勉強に集中できない、体を動かしたい子は押さえつけられて勉強の楽しさに気付けない、お互いにとってこの状況は不幸だ。
多くの子供を同じ型に当てはめるという考え方がいまだに根強い。表面上は多様性や個性を重視しているが、本質の部分では変わっていない。
才能は10代の頃に最も伸びるため、図工が好きなタイプの子には絵や工作をもっと重点的に早い段階から教育してもいいし、体を動かすことが得意な子供は少しでも運動神経が発達するうちに体を動かしたほうがいい。
「皆が同じ知識を備えていないといけない」という前提がそもそもおかしいのではないかという疑問が必要になってくる。それぞれ違う一人の人間に全員同じことを同じ空間でやらせるという発想がもはや時代遅れだと言える。
日本人はあまりにも他人と同じことをしていなければならないという強迫観念が強すぎるが、これは子供の頃に受けた教育が自然とそうさせているのかもしれない。
才能を伸ばすことよりも誰かが決めたことを習得することの方が重要視される教育制度の中で育ってきた人々は、自分も含めてそういった発想に陥りやすい。
これからはより教育の多様性や選択肢を増やしていくべきだろう。
理科が好きな子供には小学校で教えない宇宙工学やコンピューター科学を教えてもいい。これから宇宙開発が重要になってくる時代において、宇宙に関する教育を重視した学校がもっと全国レベルで増えても良いかもしれない。
確かにこういった先端的な教育を行っている教育機関は存在し、企業が出資した次世代リーダーを育成するような制度も存在する。
しかし「こういう学校も実はある」というわずかな例外的な反証を持ちだすのではなく、全国レベルでの普及を考えていかなければならないのではないか。
そのために新しい学校を新設することは難しくとも、同じ学校の中でコースを義務教育の段階から複数のタイプに分類し少数精鋭で行っていくことも必要になる。中には生徒数が足りずに学年混同で行われる場合も想定されるが、日本の過度な年齢で区分する文化を変えるためには学年という概念にとらわれない考え方があってもいいかもしれない。
自分のレベルに合わせて自分の適した場所で勉強するということがもっと当たり前になっても良い。小中学生の年齢で大学に進学することが当たり前の光景にする必要があるだろう。
午前中は既存の学校に行き午後は独自の習い事やスクールに行くというスタイルや、義務教育期間中でも一ヶ月海外や国内の別の学校で何かを学ぶオプションなどもあれば多様性は増す。少数精鋭のやり方ならばカリキュラムにも柔軟性をもたらすことができる。
そしてそもそも義務教育が本当に必要なのかという事も含めて議論していかなければならないことは多い。
弾前提として教育というのは富裕層だけが独占する物であってはならない。
寺子屋が普及していた日本は例外だが、基本的に近代教育というのは多くの子供に教育を普及させる目的があった。
しかし今の日本はそういった機会均等が崩れつつある。
教育を自由に選べるようにする事は重要であり、当たり前に義務教育を受けるという時代から選択肢の多い時代に変えていかなければならない。
もう子供はそれほど多くないため一人あたりの教育の質を高めていくしかなく、それは不可能なことではない。むしろ数が少ないから一人あたりに充実した教育を施せるとも考えることができる。
例えば本田圭佑は「ソル・ティーロ」というサッカースクールを経営しており、なるべくレッスン代のかからない仕組みを取っている。
近年の少年サッカー熱により強気の値段設定でも生徒が集まるようになっているためレッスン代の高いサッカースクールが増えているが、本田は子供が親に気を使わないように抑えた費用設定にしている。
本田圭佑が教育問題についてツイートしたのはそういったことも要因として背景にあるのだろう。
あくまでこれらの事は個人的なアイデアに過ぎず、新世代の教育についてはまだこれから教育学者だけでなく多くの人も参加して多角的に議論していかなければならない。
本田圭佑による問題提起がその一歩になればと願わずにはいられない。