elken’s blog

ジャニーズとサッカーを中心にあらゆることを評論するブログ

平成最後の夏がオウム真理教で終わる激動

オウム真理教一色の報道に対して「ニコニコ動画の例の動画懐かしい」だとか「政治利用されている」「豪雨や水道民営化の報道をしてほしい」「とにかく怖い」など様々な意見がある。

ただ自分はこれは歴史的な出来事として、平成の終わりの今だからこそ語るべき時期に来たのかなと考えている。

ある意味平成史上最大の厨二病的な事件としてこのオウム真理教の騒動は語られるべきだろう。

 

怖いから報道しないでほしいで片づけてはいけないというか、逆に言えばそれだけ大きな激動とも言える出来事がここ最近無かった事で、そういった感覚は20世紀の遺物として消えていたのかもしれない。

 

いわば「20世紀の終わり」を終わりを象徴する一連のオウム真理教関連の出来事を、「平成の終わり」にもう一度考え直させられることになっているとも言える。

先日の歌丸師匠の件だけでなく、SMAP解散や、こち亀終了や笑っていいともの終わり、など平成の終わりを感じさせることが相次いでいる。本当に平成は終わっていくのかと。20世紀型の出来事や文化、価値観だけでなく、コンテンツや経済システムなども徐々に崩壊し、GDPで中国に追い抜かれてからもう久しい。

 

まだ自分は平成の出来事としてオウム真理教や酒鬼薔薇といった世紀末的な物が過去にあったという事を知っている世代だが、もはやそのことを知らず今回初めて知ったという世代も現れてきている。

俗にさとり世代と呼ばれ、物心ついたときから日本が停滞していることが普通で、もはや「20世紀型文化の残り香」のようなものも物心つく以前の出来事になっている。

例えばジャニーズで言えば『青春アミーゴ』が世間的に流行っていた頃がその最後かもしれない。そして3.11の事があり、日本のGDPも中国に抜かれている状態が普通の日常の世界に生きている。

 

平成最後の夏と言われるが、自分にとってそれは今回のロシアワールドカップが象徴する出来事の一つだ。そもそも考えても見れば、日本のワールドカップ出場自体が1998年のフランス大会からなので、日本人にとっては平成のイベントということになる。

「歴史において平成はそれほど語られない」と言われるが、よくよく考えてみれば様々なことがあり平成の始まりはまさにオウムや酒鬼薔薇といった世紀末的な激動から始まる。

 

そして20世紀の始まりは2001年の9.11から大きな動きを見せ始める。

そこから段々と20世紀や昭和の残り香のような物が消えていくことを考えると、「平成」という時代はこれからの新時代に移行する前の過渡期だったと言えるのではないだろいうか。

この30年はいわば、昭和と20世紀が徐々に終わりゆき、変化していく期間だった。

 

もう2010年代に入り激動のような起きなくなりつつあった。

しかし東京五輪が2020年に控え、それは当然ながら新たな元号の時代の初期に起きる出来事ということになる。

一体これからどういった時代が始まっていくのだろうか。

その新時代について考えるためにも、このオウム真理教について今考え直すことは必要な事のように思う。

怖いから見たくないという心理も理解できるし、もっと生活のことについて報道してほしいという考え方も大いに理解できる。

ただこの一連の出来事についてうやむやにしたり、何もなかった知らない過去のように考えることは新しい時代にとって良いことだとは言えない。

 

まるで歴史の必然であるかのように、平成最後の夏に平成の物事が終わろうとしつつある。そしてその終わりについてどう考えるかが問われている気がする。

20世紀の出来事ではあるが、同時にそれは平成の出来事でもありその余波は続いた。

「昔オタクが多かったころの秋葉原には、オウム真理教の信徒たちが作ったパソコンが売られてた」とか「オウム真理教が選挙運動を堂々としてテレビも出ていた」とか、そういう時代の雰囲気から知るだけでも理解度は違ってくる。

とにかく今だからこそオウムの歴史的意味というか出来事の重さを問われているのではないかと思う。