今年のワールドカップもついに終わってしまった。
W杯の無い日常の虚無感は大きく、決勝と内容と結果にも落胆している人は多いのではないだろうか。
ワールドカップの決勝といえば延長線までもつれてわずか1点やPKで決まるギリギリの攻防が見ごたえだったが、ここまで大量得点のワンサイドゲームになるとは予想していなかった。
「ワールドカップの決勝を見た」という感覚は前回以前に比べて希薄だったと言わざるを得ない。
別の言い方をすればそれほどフランスが圧倒的であったし、クロアチアは選手の疲弊と選手層の薄さで差が出てしまった。持つ者と持たざる者との戦いとしては、クロアチアは決勝までこれたこと自体が見事だった。本来ならば120分のゲームで疲れ切っているところをイングランドが仕留めるかと思いきや、そうならなかっただけでも偉大だ。
ただ決してフランスを批判したいわけではなく、彼らもまた良いチームだった。
いわゆるアフリカ系の選手が多いことに対して、日本人の感覚として違和感を抱くことは不自然なことではない。
パリ症候群という言葉があるように、フランスに対する印象が日本人の場合『ベルサイユのばら』で止まっているし、創作物や演劇でも「花の都パリ」が舞台にされることが多い。
これからの感覚としては「ヨーロッパのアメリカ」という考え方の方が、フランスを的確に認識できるかもしれない。
例えばアメリカのバスケットボール代表やボクシング選手、陸上選手などをイメージしてもらえばわかるようにアフリカ系の選手の活躍によって米国のスポーツ競争力は支えられている。
フランスはもう20世紀の段階でアメリカのような国になることを選択しており、「自由・平等・博愛」という理念さえ理解すればフランス人だという社会通念のようなものがある。現実にはそれは浸透しきっているとはいえないが、アメリカ人が「USA!USA!USA!」といえばアメリカ人という感覚に近い時代になっている。
フランスというのは日本以上に階級社会であり、大学受験の制度などを見ても正式には公開されていないような審査基準があり身分が分かれていると言っても過言ではない。
また「昔からヨーロッパに暮らしている人の方が裕福なのは仕方ない」という認識があり、人種や身分の違いというのが肌感覚で理解されているような国でもある。
だからこそアメリカンドリームならぬ「フレンチドリーム」として、移民系の選手にとってサッカーは成り上がるための限られた手段であり彼らは懸命に上を目指す。
そして今回、遂にワールドカップのトロフィーに到達した。
トレンドの移り変わりが激しいサッカーの場合、一つの国が長期にわたって勢力を維持することは稀ではあるが、今後バスケットボール界におけるアメリカのような存在としてフランスはサッカー界に君臨する可能性がある。
どちらとも歴史的背景が根深く、アフリカから綿花栽培のために奴隷を連れてきたからアメリカには黒人が多く、彼らが後のアメリカ文化の礎を築いた。
フランスの場合かつてアフリカ横断政策として、イギリスとアフリカの支配領域を競った。そのフランスの野心はカリブ海やアジア諸国にまで迫ったほどであり、それほど昔のフランスは強大な国だった。
特に西アフリカ系の選手はフランス代表だけでなく、リーグ・アンを支えている。
ブンデスリーガとセリエAの隆盛が終わりを告げれば、リーグ・アンはスペインとイングランドに並び三大リーグと称される日が来るかもしれない。
今大会目覚ましい活躍をしたエデン・アザールがリーグ・アン出身であり、日本代表の酒井宏樹もまたフランスで急成長した。
プレミアリーグとのパイプも太いので、今後リーグ・アンはますます成長していくのではないか。かつてティエリ・アンリなどの時代にフランスのアカデミー教育が評価されたが、時を経てまたフランスの育成力が再評価され直そうとしている。
プレミアリーグに行けるという付加価値が高まれば、より「フレンチドリーム」という言葉は現実味を増すことになる。
もはやアフリカ系や旧領土に出自を持つ人々がフランス社会の構成員とみなされてから久しい。そしてその最高当到達点が世界に冠たるフランス代表であり、その夢を多くの選手が目指す。
そもそもミシェル・プラティニやジネディーヌ・ジダンの頃から、外からの血を受け入れることで隆盛を極めてきた。前者の場合ユーロを制覇し、後者の場合ワールドカップを制した。
フランス料理やブレンドワインがそうであるように、フランスサッカーというものは様々な要素を織り交ぜたとき深みのある味わいを出すのかもしれない。