岡部将和と中島翔哉、この二人は今後数10年以上に渡り日本サッカーに影響を与える功罪両面を持つ存在だ。
この二人に対してははっきりと批評しなければならない。自分のような末端のサッカーブログであっても、強く声を挙げなければ日本サッカーは道を見誤るだろう。
この二人は、功罪が両極端だ。
つまりメリットも大きければ、デメリットも非常に大きい。
良い部分も認め、悪い部分も見つけよう。
彼らは一石を投じるどころか十石投じているので、その破壊のリスクも考えなければならない。
まず自分の立場を明らかにしておくと「ドリブル大好き人間」だ。
ドリブラーこそサッカーの華、そう考えている。寝る前には必ずドリブルの妄想をし、サッカーが好きになったきっかけもドリブルの美しさ、更にゲームでも生粋のドリブラーだ。草サッカーレベルではあるがドリブルの練習にも明け暮れたことがある。
本当に最初に好きになった海外選手は選手はルイス・フィーゴ
バルセロニスタとしてクリスティアーノ・ロナウドは今でも嫌いだがユナイテッド時代は認めるし、フィーゴやクアレスマのようにポルトガルのウィンガーは大好物だ。
そんなドリブルマニアからすれば「ドリブルデザイナー」の出現はとても嬉しかった。
岡部将和の凄いところは「ドリブルデザイナー」という新しいクリエイター名を創出したところである。最初に名乗ればそれが仕事になる。
ただ、批評も付きまとわなければならない。
原口元気「10回やれば1回しか抜かれないがそれがパフォーマンスとして派手に映像化される」
これが対峙した当事者の意見だ。
アイマールやダービッツのような、彼が憧れる名選手との共演動画でも明らかに相手が手加減していることがわかる。
それどころか南米の旅でもストリートサッカーになんとか入らせてもらって、かろうじて動画を撮っていた。
ドリブルデザイナーが日本サッカーを変えなければならないと思ったきっかけは、彼が怪我でプロサッカー選手の夢を諦め少年サッカーを見ていたときだ。
当時の教育はとにかくドリブルやキープが禁止で、保護者からも早くパスをしろと責め立てられていた。
その時、岡部氏はこの「黄金世代的旧世代のパス信奉スタイル」に一石を投じることを決心する。
それはNHK逆転人生の岡部将和登場回に描かれている。
そう、日本サッカーは黄金世代という呪縛によって過度にパスに偏っていた時期がある。
中村俊輔、小野伸二、小笠原満男らが「ファンタジスタ」だともてはやされていた時代だ。
彼らを未だに思い出補正で「天才」だと称する思い出補正満載の懐古老害サッカーファンがいる。
その忌まわしい弱々しい日本サッカーが終わり、本田圭佑が台頭して以降、自分は本格的にサッカーファンとなる。
南アフリカW杯のために中村俊輔を切り、本田を起用したことで日本サッカーは軟弱な時代に一区切りをつけた。
しかし事は単純に進まず、彼もまた「個の力」という曖昧な言葉だけ残し、今もまだその呪縛に日本サッカーは捕らわれつつある。
華麗なパスから個の力という時代、その後自分たちのサッカーというこれまた曖昧な言葉が消費され、その後それが何かと突き詰めドリブルに至る。
本田圭佑は「個人の力」とは言っているもののドリブルとは断言していないし、自分の実績でも証明できなかった。
定義がわからず曖昧で空虚ところに、ちょうどドリブルデザイナーと中島翔哉が登場してきたわけだ。
ちょうど耳心地の良い肩書だ。
パス信仰時代の反動で2010年代前半は「南米式のドリブル塾」みたいなものが溢れていたし、ネットにも動画が上がっていた。
ピピ君こと中井卓大の動画もその一種、今でも数十匹目のドジョウを狙い「天才少年」という話題は多い。
インスタグラムだと謎のサッカースクールや、謎の天才少年、いくらでも見かける笑
過保護な親が、サッカーの実力より先に加工した子供の容姿をアピールしたがるんだよ残念なことに。
正確な記事は覚えていないが「日本では特定の能力だけ意図したスクールがあるが、サッカーとはそういうものではない」というような有名スペイン選手のインタビューを見たことがある。
おそらくドリブルデザイナーのことだろうなぁ、と思った。
韓国女子リーグでプレーするスペイン語圏選手のインタビューでも「韓国と日本は個人の力重視で、スペインは戦術重視」と語っていた。そう、後進のアジア程かつてのブラジルのように未だに個人の力を推しており、それが逆効果となっている。
このあたりは自分自身曖昧で、明確なソースは出せないのだが最近の記憶ではある。
日本代表の10番を背負っていた中島翔哉もこの系統の選手だ。
日本は意外なことにストリート系の選手やフリースタイル、ビーチサッカーの選手だとワールドクラスの選手が多い。
SNSでもそういうパフォーマンス型の選手はまあいくらでも見る。
(これだけワールドクラスの選手がいたらいいのに笑)
そういう選手を見ると中田英寿と本田圭佑の対談で語っていた「日本人は練習だと上手い」という言葉の意味は響いていなかったのかなと思わずにはいられない。
もっとも彼らの場合、プロになれなくても夢を追いかけていたということが多いが。そしてその後日本サッカーの育成や進歩に関わってくれているだけありがたい
ただああいう目立つだけの面白い技術だけ見て日本人は器用で上手いと錯覚すると永遠に日本人はサッカーが上手くなれない。
パスやリフティング神格化時代からようやく進歩して、フィールドプレーのドリブル重視になったものの、ここからドリブルデザイナーと中島翔哉のハイライトプレーの時代が訪れる。
親善試合レベルならウルグアイもコロンビアも持て遊べる時代は来た。
今後、そうやって影響されたキッズはいくらでも登場するだろう。
もう局地的な技術では十分に追いついている。
「ドリブルで99%抜くには角度が大事」ということは伝わった。ただその後のプラスアルファをドリブルデザイナーは教えてくれない。なぜならドリブルデザイナー自体がプロどころか南米のストリート選手と戦えていないから。ドリブルとはその後の視野があってこそだがそれ以降は専門外、かつて似非ファンタジスタを育てた指導者のように。
イニエスタも幼少期はドリブルだけで満足していた天才少年だった。大人たちが集うバルの椅子の隙間をそうやって遊んでいた。育成とはその後を教えられるかにある。
中島翔哉も、あるいは久保建英もドリブル指数という採点競技であればワールドクラスの選手かもしれない。
ファンタジスタやパサーというまやかしの言葉に酔って、中村俊輔、小野伸二、小笠原満男をもてはやしていた時代のように特定の指標のみで祭り上げてはいけない。上述のスペイン選手の「サッカーとは複合能力」という言葉が本質だ。
もし絶対という言葉があるならば唯一の指標とは常に「サッカー」だ。それは常に移ろいゆくようで、移ろわない。
サッカーが上手いかそうでないかという曖昧な指標しかない常に。
小難しいサッカー爺さん、例えばビエルサとでも議論したあとに「それは最終的にはサッカーなんだよ」とでも言うように。サッカーだからサッカーで、これ以上の言葉はいらない。
そして、それが末端のサッカーファンである自分に解かれば苦労しない。自分ごときがサッカーなんて解読すれば、日本はとっくにビッグクラブの常連でワールドカップも制覇しているだろう笑
曖昧な言葉で逃げたいわけではない、ただ愚かな自分自身どころか、人類の叡智さえも及ばなすぎるため、悪気があるわけでもない。
わからないものはわからないというように、ただサッカーはサッカーなのだ、それがたとえカルチョやフットボールという世界中のあらゆる言語で代替しようがね。