elken’s blog

ジャニーズとサッカーを中心にあらゆることを評論するブログ

三笘薫は戦闘機で言えば紫電改である

 

3位決定メキシコ戦の感想記事で書いたように自分は三笘薫が紫電改のようだと感じたと書いた。

その点についてもう少し詳しく語りたい。

 

まず見た目や名前が厨ニ的でかっこよくロマンがあるところは風貌もプレースタイルもかっこいい三笘に重なる。非常に自分好みだ。

後半の残り少ない時間に出てきて意地の1点を決め、無双したことも大戦終盤に実戦投入された紫電改と酷似しているだろう。

 

ただ悪い意味でも似ており、神格化されているが紫電改は有利な防空戦で使われ、三笘はフロンターレの試合でも後半出場で相手が疲れている時間に活躍することが定石というか得意パターンだった。もちろんイメージ程フル出場での活躍が少ないわけではないし、守備力も体力もある。

 

3決のメキシコ戦は防空戦にしか使えなかったもったいなさを感じるし、3点取っていて準決勝ブラジル戦が延長線だったのでメキシコとしてもある種の気の緩みがあった。

逆に三笘はスペイン戦でベンチ外だったので休息たっぷり、紫電改が遠くから攻めてくる米軍機相手に万全の状況で挑めた事のようだ。

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この記事は紫電改がどんな戦闘機だったかわかるのでミリタリーに興味がない人にもおすすめしたい。撃墜されても自国に落ちる防空戦と、帰還のための燃料を考え落ちた場合そこは敵地という状況は心理的状況が異なるなど解説されてある。

 

配備がもっと早ければ、というのは怪我の回復やコンディション調整、起用法の浸透(戦闘機の運用法の熟練)が遅かった三笘と紫電改の共通点

 

そして性能や能力が神格化されているが日本機、日本人としてはまぁまぁというだけで世界にはこのくらいのウィンガーはいくらでもいるということだろう。

自分も紫電改と三笘の両方好きなのだが、贔屓目で神格化してそうであってほしいというバイアスがかかっていることも同じだ。

 

そしてこの東京五輪代表チームでいわばライバルだった相馬勇紀もまた日本人の情緒を誘うという意味で零戦っぽさがある。

ドラミは可愛いし一発の突破があるので、性能不足でも精一杯やって見た目の美しさがあるゼロ戦と似ている。

 

零戦という戦闘機は簡単に言えば初期の段階は格闘戦で無双したものの、アメリカ軍が対策を覚えるとその紙飛行機のような防御力の弱点があらわになっていく。あらゆる不足の状況で、何かを犠牲にしているところも日本的悲哀といえる。

 

名古屋グランパスのサポーターは特にわかっているだろうが、そこまでの能力じゃないことは重々承知で戦力不足の日本がなんとか使ってた哀愁に共感するわけだ。

やれることは少ないしそこまで器用じゃないけどワンパターンの格闘戦となんとか戦うと。

そしてゼロ戦の機関銃は口径が大きく威力は高いが狙うのが難しいというのも、相馬の精度の低いクロスやシュートのようだった。

 

一生懸命やる相馬くんの姿が共感呼ぶのは、零戦が大した戦闘機じゃないのはわかってても映画が作られるくらい日本人の心に訴えかける何かがあるからだ。

テストマッチのころの活躍が懐かしいのも、初期の段階でゼロファイターと恐れられた零式艦上戦闘機だ。

 

三笘薫は自己中で髪型ばかり気にしてるナルシストで使えないという感情で叩かれ、相馬のがむしゃらな姿が気に入られるのも日本人的だなぁ、と自分は思っていた。やる気の姿勢や態度を重視する傾向はむしろ海外の方が強いが。

 

個人的な意見として正直、自分は三笘薫の方が好きで、相馬勇紀のプレーには浪漫やかっこよさは感じない。なんだろう、おじさんおばさんが親戚の子供に夢中になってる感があるというか笑

気に入られるのは相馬で、三笘はいけ好かないやつに見られやすいというのはなんとなくわかってもらえるだろう。

 

中島翔哉の時もこういったことがあった。特に中東に行ったことや楽しむこと重視なスタンスが、典型的な最近の若者や気の抜けたゆとりっぽさが気に入らない層に叩かれまくっていたのだ。

それに似たものを感じていたし、おっさんサッカーファンはかなりそういった傾向がある。

わりと能力よりそういった曖昧な感情で好みが分かれるわけだ。

 

自分はもう早くて一生懸命なだけの典型的日本人選手はもうお腹いっぱいで、相馬勇紀や前田大然みたいな選手は好きじゃないしA代表だと、浅野拓磨にはうんざりというのが本音だ。

だからこそ早くて上手い海外基準のドリブラーっぽさを感じさせる三笘薫に惹かれていた。

 

零戦が日本人の郷愁を誘うことはよくわかるが、あの戦闘機に頼り切って早く新型機を開発しなかったことも日本の敗因だ。

それと同じで複雑な戦術がいらずとりあえずシンプルなことやる相馬や前田みたいな選手は、戦術構築力がない森保一みたいな海外を知らない旧世代の指揮官に取っては楽なのである。

 

勝ったときは次も行けるだろうという旧日本軍と、勝った戦いこそ徹底的に反省し分析したアメリカ軍の差はまさにリベンジを果たしたメキシコと果たされた日本代表の差だ。

 

森保一にターンオーバーという概念がなく酷使された遠藤航が戦犯になってしまったのは、人名軽視でベテランパイロットを失った旧軍とこれまた重なる。米軍はパイロットを休息させたが、枢軸国は休みなく出撃していた。これはそもそも人材自体が少ない=育成していない、という根本の構造の問題でもある。今も昔も無理させるしかない日本の状況だ。

 

ファンもそうやって一生懸命やっている姿をなんとなく応援したくなるので、日本のサポーター含めての問題という側面もある。

内心、日本人は苦労とかブラックを嫌いではないどころか美化するまである。

太平洋戦争だって、日本人一人ひとりの国民性が未熟だったことも敗因でマッカーサーに幼児のようだと言われたわけだ。

まだまだ日本人のサッカー観自体が草の根レベルで成熟していないのは、五輪のサッカー決勝が放送されないことにも現れている。

 

甲子園球児の熱心な姿勢に青春の美を見出すようなスタイルで日本代表を応援していたら、いつまで経っても世界には追いつけない。時間稼ぎや演技が日本人の感性にはあってないからサッカーは見ていて気分が悪いとか、甘いこと言ってるから勝てない。

国民の代表なので、政治と同じく見る方も成熟しなければ良い代表にはならないだろう。

 

自分は太平洋戦争の敗因はそういった国民性の部分にもあって、上級のお偉いさんだけが悪いという話でもないように考えている。

サッカーみていると、「未だにこんなこと言ってる人いるのか」と呆れることも少なくない。

ただJリーグ開幕から30年弱という意味では、ようやく近代国家を歩み始めた明治時代なので、これは仕方のないことでもある。

 

田中碧がまだ自分たちはサッカーをわかっていない、世界は既に次の段階に入っていると分析してたが、こういう青年が出てきてこそ日本サッカーの現代化は遂行される。

ドイツは若手選手どころか指導者に既にそういった聡明な青年が現れている。

 

日本人特有の礼儀だの見た目の情緒だのがそこまで好きであればいつまでも真夏の甲子園みて、日本人の感性にお似合いの紳士なラグビーでも応援していればいいのだが、自分は軍事マニアが元々の出自なのでそうやって成熟した勝てるサッカーを見たいという思いが強いわけだ。

いつまでも悪い意味での日本的情緒や慣習、懐かしさにしがみつく日本人の姿が衰退国家だなと感じてしまう自分がいる。

 

髪切らない協調性無さそうな三笘が気に入らなくて、何となく一生懸命で可愛げのある相馬が好きとか、ほんと典型的な感情での人事だなぁと。

先の大戦でも人間関係で決まり適材適所が行われなかった日本型組織が敗因だった。

 

サッカーって日本の昭和的な他スポーツと違って、制度を世界基準にしてどんどん海外の指導者呼んだりとわりとグローバル基準なことを日本のスポーツ界にしてはよくやっている方だと思っているけど、普通に日本的な未開な部分もあるよなぁと。

女子サッカーの高倉は長らく辞任しなかったし、協会にとって都合のいい森保が解任されないことはその典型だ。

 

徹底的にナチスの指導者を排除したドイツと違って、GHQの方針で日本はある程度旧軍部の指導者が残されたわけだ、支配を用意にするために。責任の所在が曖昧で、国民もなんとなく感動をありがとう、一生懸命やった人を応援しようとなっちゃって結局なあなあで次の話題に移ってる、もうこれはどうしようもない日本人の国民性かもしれない。いわゆる近代的自我の形成が完全には行われなかった結果だろう。

 

軍事や歴史とサッカーをこうして無理矢理絡めている自分はきっとおかしな人間だろう笑

監督で言えばエルロコ(変人)のビエルサが好きなぐらいだ。

ただサッカーって本当に国民性が出るのであらゆるこういった角度からの検証が必要なのである。

一つの専門分野よりも、今は自分の複数な得意分野を組み合わせる視点が問われている時代だ。

 

四六時中サッカーを議論しているような国にならなければ真の強豪国にはなれない。偏屈なサッカーおやじやマニアがいてこそ、成熟した文化だ。

 

サッカーは見てわかりやすいが、単純ゆえに奥深い。だから自分の哲学や観点が求められる。昨今、成人の幼稚化が深刻に進む日本では想像力や読解力が必要なものより、誰が見てもわかる底の浅いコンテンツが好まれるようになっている。それだけ明るくない社会、日本人の多くが孤独で疲れていて手っ取り早く現実逃避したいわけだ。

 

ブラジル人にもサウダージという特有の郷愁があるように、日本人にもそれはあって当然だ。無理に世界基準化せずに、日本人の郷愁や憧憬で勝てるようになることがもちろん一番だ。どんどん時間稼ぎや演技をするようになろう、とは思わない。でも外国がそれをやるからサッカーは見たくない、という意見は甘いとは思う。そこは日本人的弱さだ、世界の現実はそうだとしっかり見て勝つということが素晴らしいのではないか。

 

ガラパゴスで醜い世界のやり方は見たくない、そして日本人は礼儀正しく民度が高いと思い込みつつ、自分たちは国内でずさんでブラックなことやりまくってるのも現実だ。

 

日本人の批評離れではないが、批評的に見る姿勢もサッカーどころか社会発展のためには必要なことだ。日本人が武道に誠心誠を見出すように、そうやって文化論や人生の悲喜こもごもを考えることまで含めてフットボールという競技なのではないだろうかと考える。