elken’s blog

ジャニーズとサッカーを中心にあらゆることを評論するブログ

松本人志「親ガチャは遊びで使われていたが大人がマジレスするようになった言葉」

流石数々の流行語どころかもはや現代日本語のコミュニケーションスタイルを築いた天才は違う。

スベらんなぁ〜笑

 

色んな親ガチャ論があるけど、全部ちゃうのんよ。そういうマジレスが総じてサムいというのを松ちゃんは見抜いてるあたりこいつがいつまでもトップなのはわかる。

他の大御所はわりと時代遅れな言動が多いがキャラで許されるという立ち位置なのに対して、松本は時流に対する柔軟性が高い。もちろん結構ハラスメント的な言動も多いが、SNSの使い方といい現代的だったり本質的に俯瞰しているところもあるからだろう。

さんまがクラスの中心だとすれば、松本はそれを片隅から見ていてそこでは人気者や中心という本来陰キャに近い存在だからだ。ちなみにさんまも生い立ちも闇深いので、決して明るいだけの陽キャというわけではない。

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そもそも「親ガチャ」という言葉って若者が使ってると思われてるけど、わりともっと前からねらーが使ってて、それ以前からも人生は初期のキャラ設定があってリセットできないクソゲーみたいなネタはいくらでもあった。

こういうある意味地下のようなところで遊んでいたものが世間に晒されて、賛否両論にしろマジレスの集中砲火を食らう現象ネットがつまらなくなった要因の一つよなぁほんと笑

と自分は思う。

 

元々は「人生って不条理だけど、ゲームに例えるとすんなり理解できるわ〜」っていう遊びのノリで、ムカつくこともゲームだと思えばなんか面白いよねって雰囲気だったし、別に反抗期や思春期のキッズなんて今も昔も親がクソだとかよく言ってるし使いやすい言葉がガチャってだけだ。それに大人でも人生が上手く行ってないときにガチャだよなぁとぼやくことぐらい許されていい。

「くだらないけど、そんな状況も嗤って行こうよ」っていうブラックユーモアだったわけだ。

 

これがある時から「この言葉を使うやつの甘ったれた考えが許せない」という一般的な大人たちと、ガチで親ガチャという要素を恨む、あるいは悪い意味で乱用する層というマジなトーンに侵食され始める。

 

これこそまさに「大人たちがシリアスに取り上げて面白くなくなった」という松本人志の分析だ。

 

ネット民がコソコソと陰で使っていた、自分たちの人生を軽く自虐して笑い合うという「可愛気のある陰キャ」のノリから、ガチで人生の格差に憤るおじさんおばさん達に乗っ取られたり、社会に必ず一定数いる「甘えるな、人のせいにするな」的なとにかく他人の甘えが許せない自己責任な人たちの説教ツールとして利用されるようになった背景がある。

これでシリアスに大人たちがマジレスの応酬をしあっているという地獄の構図が誕生したわけだ。

こうなると流行は終わって、最初面白く使ってた層は敏感に察し使わなくなりオワコン用語になるか、定着するものの本来のノリとは違う誤用で使われ続けるかのどちらかとなるだろう。

 

ちなみにこういう、"なんとかなノリ"も現代的な用法で使われ始めたのはダウンタウンの影響で、こういうダウンタウン発の現代日本語表現は無意識に誰もが使っている程影響力が絶大だ。

 

その松本の数年前のネットニュースでは「今の有名人は深夜の横断歩道の信号無視までチェックされるようなもの」と現代社会を評していたが、例え話なのに掲示板ですら「信号無視は駄目だろぉおおお迷惑だあああ」というマジレスが書き込まれていた。こういう息苦しさを誰よりも感じている松本だからこその視点なんだろうなと。

 

ユーモアのないマジレスがネットをつまらなくする、(ネタをネタと見抜けない人は)インターネットを使うのが難しい的な現象がまた出てきてるなぁとため息しか出ませんよ神

読解力不足やユーモア不足のマジレスというのはもはやある種のネット公害とまで言える。

 

人生ってガチャなところあるからなぁっていうゲームの話題がわかる身内にキャッキャと軽い冗談で話していたのを、「全部ガチャで決まるから無駄」と考えて諦める極端な層と、「そう思ってる使ってる甘ったれた奴らばかりになってきてる」と曲解する層がこの言葉をほんとにシリアスなものにしてしまっているわけだ。

 

ゲーム用語としてネット民やオタク同士にわかるネタだったものも、普及すると「親には感謝するものだ、親をゲーム扱いするのは何事だ、不謹慎だ」という層も当然出てくる。

 

特に日本は(どの国でもそうだろうが)「親に感謝しましょう」と自然と耳にする言葉なので、人生を人のせいにするという甘えと、親をゲームに例える不謹慎さに対する不快感が反発を生むのは仕方がない。

親をガチャ扱いするというのは日本の常識的な美徳に真っ向から反する非常識で不謹慎な行為だからだ。

 

そして同じ東アジアで日本と似た階級社会、そして親に敬語や敬称を使うほど親子関係が厳格な韓国では土匙、銀匙、金匙と数年前にとっくに社会問題となっている。

多民族社会ではそれが人種問題に対する意識で、更にもっとエゲツない階級も存在するが、一見均質な社会に見える日韓のような社会ではそれが親ガチャや何色の匙を持って生まれてくるかという問題意識として現れたのだろう。

やはり韓国兄さん、こういうのは兄が早い(これもネタなのだが、韓国は兄じゃない、日本と似てないとかマジレスする人がいる)

これは東アジアにおけるBLM的なトレンドとも言えるかもしれない。土匙や親ガチャ外し民のライブスマター的な反発である。

 

実際親ガチャ要素が強くなってきているのは事実であり、この不快感は当然生じるべきでもあり、成熟した先進国社会はこの不快感を許容しまずは受け入れなければならないことも事実だろう。

ある種の親ガチャ成功者の原罪であって、その言葉を使われる時に生ずる不快感は甘んじて受けなければならない。欧米ではこの格差問題について既に過去の資本主義論は旧式であるという議論がされているし、この言葉を使うなというのは目を背けて甘えるなという自己責任万能論にしか行き着かない。

甘ったれた考えが許される雰囲気も余裕ある社会の形成において大事なのではないかと考える。

 

そして親ガチャ擁護民も外した部分ばかりにとらわれるのではなく、当てた部分を見ることで少し楽になれる。

一つ一つは誰でも当たるようなものでも複数外していなければそれは結構レアだ。

自分はガチャゲー自体嫌いでしなのでシステムがわからないが、SABCDFGがあったとして、大体BCDぐらいに収まるのが普通の人間だ。そのBとDの差が実は大きくて誰もSに文句を言っているわけではない。

BからDの間で普通の人生は動いているし、大体みんなそのくらいだ。同じのぐらいの人も大勢いるわけだ。

 

顔はあたりではないけど大外れではないし、身長と体型は外れなかった、性格陽陰ガチャは外れだけど、下戸ガチャやアレルギーガチャは引かずに済んだ、とかいろいろ考えられるわけだ。

歯ガチャは治せても身長ガチャは治す難易度高いとか、体型や骨格ガチャはどうにもならないから大外ししなくてよかったとか、そういうところを見るべきだし、よくテレビで見る親ガチャ超当たりに見える東大生でも、彼女いない歴年齢みたいな企画に出てる人は高卒でもずっとモテてるイケメンやコミュ強の人生を親ガチャ当たりと解釈しているかもしれない。

 

いい学歴取らせてくれたり資産持ってる親があたりかというとそうでもなく、陰キャに育てないとか単純に良い容姿や運動神経くれる親のほうが当たりだったりするので解釈次第ではある。

 

もっとも今の東大生は三世代以上に渡って品種改良されているので、昔みたいな勉強以外知らない不細工な陰キャガリ勉なんてレアで、明るくて育ちがいいので性格もよく、お金かけてもらってるので様々な体験を幼少期からして魅力的で人生に深みがあり面白く、母親が三世代の間ずっと美人なので容姿も良く、当然勉強もできるという人が結構多いので間違いなく親ガチャはある。

 

結局の所、親ガチャという言葉がなぜここまで普及したかというと、従来の国ガチャ、社会ガチャ、地域ガチャ、世代ガチャには限界があるからだ。

国や社会がカバーする領域には限界があって、例えば同じ社会でも成功している人間はいくらでもいるし人生の質を左右する自己肯定感、容姿や身体能力、コミュ力、要領の良さ、集中力、忍耐力、人から気に入られやすい人間性などの要素は国は関係ない。親の育て方や遺伝子といったもっと根深い問題が関係しているからだ。

当然それらは努力でなんとかなる部分もあるが限界はあるし、親が適正を見極めてどう育てるか、そもそも愛情があるか、そういった人格形成の諸々は残念ながら親ガチャ要素が物凄く大きいのが現実だ。

 

ただそういった親ガチャがあるのは前提として、親ガチャ当たった当人は大して否定していない事も多いように思う。

そういう人たちって素直に親に感謝してるとかいうことが多いし、感謝している事自体親ガチャ成功を認めているからだろう。

この言葉を否定している層には外れの状況から上手く行った成功者もいるので、親ガチャ成功か失敗か単純に分断すべきではないだろう。

 

親ガチャ成功者ほどこの状況からじゃなかったら無理だったと謙虚に思っている場合もあれば、自分はあのような状況から這い上がったのから環境のせいにする甘い考えの人間が許せないというパターンもある。

そういう人は根性ガチャや努力力ガチャ、忍耐力ガチャでSを引いているという自覚がなく、他人に厳しくなりやすいのでこの議論で一番タチが悪い存在にもなり得る。自覚があれば自分と同じく救われる人を増やせるが、往々にして自己責任論とこういう層は相性がいい。

 

このように自分はそりゃ親ガチャはあるよなぁという正直な弱音もあるし、当たりを引いている(正確に言えば外れていない)部分探せばないわけでもないので「もっとそういった他人の甘さに寛容になって欲しいし社会は不快感を受け入れる義務と原罪がある、そして人生の悲哀を面白おかしく笑いに昇華していた原点に戻り、外したからと言ってハズレばかりでもないというところも見ていくべき」と考えている。

 

まぁ全体的に言えばもっとマジなシリアストーン抑えて行こうよ、という立場であり、松本人志が鋭いツッコミの一撃をこの雰囲気に呟いてきたのはまさに松ちゃんのお笑いセンス流石だなぁと思うわけである。