高梨沙羅の失格問題で思ったのだが、道具や装備が競技内容を占める種目も相当欠陥だよなぁと。
まず前提としてこの世に欠陥でない競技はない。
自分はサッカーファンなので、散々欠陥競技という誹りを目にしてきたけど、他競技も大概欠陥だなと。
サッカーってそう考えると道具の重要性が低くて割と人間性で測れるスポーツではないかと。スパイクなんてどれも大差ないし、良いスパイクだから上手くなるわけでもない。
例えば駅伝やマラソンって凄いシューズが開発されれば9割の選手がそれを使っているみたいになるし、水泳もウェアの進化でもはやその性能みたいなところもある。
確かにサッカーは昔よりボールは扱いやすくなって、大昔は雨で水を吸って重くなるので頭に当たると衝撃が凄かった懐古されるようなことはある。ただ同時代のスパイクとボールはどれも似たような物だ。
南アフリカワールドカップのときのジャブラニは特殊で本田圭佑とフォルランはこのボールに適応したから活躍できたみたいな話はあるけど、そんなよくある話ではない。
他要素が多すぎて複雑に絡み合っているからだ。
道具重要な競技は結局いいもの買える家庭環境かという問題にもなってくるし、買えないと競技始められないというのも選別になっている。
音楽で楽器に差があるのは芸術だから仕方ないと思えるのに、スポーツが道具で決まるのはなんだかなぁと思う自分がいる。
ジャンプ競技なんてスーツをどれだけバレない範囲でギリギリ攻めるかというもはや競技内容以外での小細工だなと。失格にされないかどうかはもはや運ゲーや忖度だ。サッカーはスパイクに小細工仕掛けたからと言って影響はなにもない、結局本人が上手いかどうかだ。
サッカー番組でホペイロの仕事を扱った特集を見てスパイクチューニングも奥深いし、実際感覚の違いはあることにはある。一応自分もスパイクを買って使ったことがあるからその感覚はわかる。プレースタイル体質との相性もある。ただそれで決まる要素はそこまで多くないしダイレクトに反映されるわけではない。
そもそもジャンプ競技は身長に対して板の長さが決まっていたり、ウィンタースポーツ全般的道具の規定が多すぎないかと。
卓球もラケットの不正を水谷隼が指摘していたし、道具の戦いになっちゃってるなと思うときがある。
自分はエアソフトガンでの射撃をしていた経験として、道具の調整も含めて競技だというのはわかる。射撃とかモータースポーツとかまでくれば道具も競技の一部だ。
戦争でも銃や戦闘機、あるいはモビルスーツの性能差など勝敗が機器によるところはある。
ゲームでも使うキャラクターの差はある。
eスポーツがいまいち市民権を得られないのは使ってるキャラが強くて使ってる本人は本人は見えないと思われるところにある、というのはよく指摘されていることだ。つまりスポーツは純粋な競技内容決まらなければ萎えられるわけだ。
その点、格闘技はほとんど道具の影響がない。柔道なんて全員同じ道着で、そんな道着ごとの影響なんてないだろう。ゲームでもあるまいし特定の能力が上がる道着なんてない。
使ってる道具の差が影響を与える競技はどうしてもeスポーツ的になってしまうというのはあるかもしれない。
スポーツの技術や能力の話をしたいときに、道具のような人体ではない外部要因の話になる。
スポーツというのは身体能力の限界を見るジャンルであって道具の話という人工要素を見たいわけではない。
結局人間がやる以上、欠陥がない競技は無いということだろう。どの類の欠陥を受け入れられるかで好きな競技は異なってくる。
自分はサッカーの醜い部分はそれも人生だと感じられて許容範囲内だが、もうこれ道具の話になってるなという競技は萎える。
サッカーのいいところはドーピングが一切通用しないところだ。
元ロシア代表カルピンの有名な「ドーピングしてたらロシアはもっと強い、ドーピングに失礼だ」というジョークはあまりにも有名だ。
一つの能力を高めれば結果が出せるほど単純ではない。
サッカーこそ小細工が多い卑怯さを競う騙し合いの競技だが、道具の改造やドーピングでセコセコとやるようことはない。そんなことしてもどうにもならないからだ。
マラドーナがドーピング疑惑で大会追放なんてこともあったのでないわけではないが、そこまでリスクを取るほど有効ではない。
競技内容がシンプルであるほど道具やドーピングの影響力は高まる。
矛盾するようだが道具ではない身体能力の限界を見たいと同時に、身体能力だけを見たいわけでもない。
道具も身体能力も僅かな一要素に過ぎないものであってほしいし、人間としてのあり方やセンスを感じる競技が自分はやはり好きだ。