elken’s blog

ジャニーズとサッカーを中心にあらゆることを評論するブログ

浅田真央引退に見るフィギュアスケート選手の選手寿命の短さ

フィギュアスケート選手浅田真央の引退が発表された。かなり若いころから日本のフィギュアスケート界を牽引してきたレジェンドの1人がこうして引退の決断をしたことは世の中に大きな衝撃を与えている。

 

個人的にも浅田真央は好きな選手の一人でもあり、多くの人がその華麗なスケートに勇気づけられてきた。記録より記憶に残るタイプ選手だったともいえる。オリンピックの金メダルには手が届かなかったという無念はあるかもしれないがそのメダル以上の感動を日本人に与えてくれたことは言うまでもない。トリプルアクセルという今でも語り継がれる代名詞は伝説だ。

 

女性フィギュアスケート界は浅田真央がいたからこれほどまでに華やかだったともいえるし、これほど好感度の高いスポーツ選手は男女問わず珍しいほどに見ていて好感度の高い選手だった。

そんないつも氷上に立っていた選手が4月10日に引退という決断を下した。しばらく休息を取っていた時期がありそこからまた戻ってきたのが最近の事のように思えるが今回ついに本当に引退の時が来た。そしてその年齢はまだ26歳でもある。26歳で引退ということは他のスポーツ選手で考えたとき非常に速い印象がある。

サッカーでいえばこれから選手としてピークを迎える時であり、野球やボクシングなどは30代後半がピークだとも言われている。それゆえにフィギュアスケーターが26でベテランという感覚はそれだけ年齢との戦いでもあるということの証左だろう。

 

若すぎてトリノオリンピックに出場できなかった頃から現役で活躍しているためもう10年以上日本でトップを走り続けてきた選手であり、それゆえにまだ26歳だったのという印象が強い。

しかしその26歳がベテランに数えられるのがフィギュアスケートの世界であり選手のピークは10代が全盛期とも言われている。フィジカルコンタクトが無いスポーツであるためむしろ身体の柔軟性の方が重要視され、その意味において10代の方が有効なジャンプやスケートができるというのが定説になっている。

 

またフィジカル的に非常にタフであるため関節の摩耗や軟骨の消耗が早いことも選手生命の短さの要因だと言われている。実際にベテランの年齢を超えても活躍していたプルシェンコは骨にボルトを埋め込んで氷上に立っていた。

 

採点競技のフィギュアスケートがスポーツではないという意見もあるがフィジカル的には負担が大きく長期間活躍できないほどタフなスポーツでもある。

回転してジャンプするという動きはそれだけ体に大きな負荷がかかり、これは野球選手が生涯で投げられるボールの数が決まっていることにも近いかもしれない。

ただでさえジャンプと着地ということは身体への負荷が大きく、そこに回転という事まで加わればその身体への影響は非常に大きくなる。そしてそのジャンプが競技のメインになっているのがフィギュアスケートでもある。転倒は日常茶飯事の事であり練習も含めれば1日に何度も転倒と着地を繰り返す。このことがフィギュアスケーターの選手寿命の短さの大きな要因になっていることは間違いない。

 

スポーツ選手というのは身体を消耗しながらそのアスリートとしての活動を行っている。将来再生医療が発達すれば選手寿命は長くなるかもしれないが現行の医療技術ではまだ選手生命を飛躍的に伸ばすという段階までは到達していない。

スポーツの為にも再生医療研究が発達することが求められる。

骨や関節、軟骨というのは有限な消耗品である。それゆえに活動できる機会は限られており、フィギュアスケーターは早々に引退し身体的負荷の小さいアイスショーなどのスケートへ転向したり指導者への道へ進むことが多い。

 

またそもそもフィギュアスケート選手になるための道も狭き門であり、最近では本田姉妹のように経済的に裕福でなければ幼いころからその活動はできないと言われている。その狭き門を潜り抜けフィギュアスケーターになったとしても活動費用は莫大であり安定した活動ができず、経済的な問題を理由にその道を去ってしまうケースも多い。

フィジカル的な問題に加え経済的な問題、そして裕福な家庭に生まれるかという出自の問題も関わってくる。

本当に限られた人しかあの華やかな氷上に立つことはできず、それゆえに美しいともいえる。

華やかで美しいフィギュアスケートの世界はそう言った厳しい練習や経済的な事情によって支えられている。表舞台で見る華やかさの裏にはいくつもの涙が存在するだろう。

フィギュアスケート選手の引退が早い事の理由にはそう言った事情が存在する。

そういったことと戦い続けながら美しいスケートを見せてくれた浅田真央には心の底からお疲れ様と言いたい。本当に素晴らしいフィギュアスケーター浅田真央が存在したことは紛れもなく事実でありこれからもその存在と偉業は語り継がれるだろう。

GACKTって今マレーシアに住んでたのかよwww

謎の収入減がありそのミステリアスな生活は謎に包まれているGACKT、もはや本業すらよくわからずとりあえず「職業GACKTである。

彼は一体ミュージシャンなのか、それとも格付けチェック芸人なのか、謎のセレブ風芸人なのか。海外にもよく行っておりTV番組では流暢な英語と中国語を披露。

最近では東南アジアのカジノでポーカーに入り浸っているという報道もあり、「日本でカジノを開くべきか」という質問に答えたり、かと思いきやツイッターでは人生のアドバイスをしたり円形脱毛症の対処法や金正男の事件について語ったりとよくわからない謎の識者のようになっている。

怪しい人であることに変わりはないがその怪しさは逆にミステリアスさでもある。

多くの人が様々なジャンルでガクトに質問をし、生きるヒントをもらう。むしろ本業のミュージシャンとしてよりもセレブ風芸人や、格付け芸人、ラジオ芸人、それらを総合して本業GACKTなのかもしれない。

 

ただそのセレブであることは間違いなく、マレーシアの首都クアラルンプールに約16億円程の豪邸を所持して1年の6割はマレーシアにいるようだ。そもそも日本にいなかったのかよという驚きがあり、まさに英語と中国語が広く通じるマレーシアは理想的な環境だろう。

マレーシア自体今先進国入りを目指しており、東南アジア初の先進国が登場するならばシンガポールかマレーシアのどちらかだと言われている。そのため都市が非常に清潔であり、GACKT的には非常におすすめの海外移住先らしい。

ちなみにクアラルンプールはスペルでKuala Lumpurであるらしく、クアラ・ルンプールという発音が正しい。自分はクアラルン・プールだと思っていたが、それは間違いでありクアラとルンプールというマレー語の融合による都市名であるようだ。

クアラルンプール

とにかく今経済成長が顕著であり華僑系も多く、先進国入りを本気で目指しているだけあって他の東南アジアの国とはイメージが異なる。GACKTが日本人にこの都市を薦める理由も頷ける。

数年前に国内の豪邸がファンクラブ収入源が減ったことで売却せざるを得なくなったというニュースを聞いたが、今はマレーシアを拠点に生活しているということは驚きである。やはりガクトといえば謎の豪邸であり室内に噴水があるミステリアスな家で生活をしているのがそのスタイルだろう。

こういうのもある意味自身のイメージを作り上げる仕事の一環であり黄金のランボルギーニを持っていたりポーカーが得意だったり謎の人生論を語ったりしてこそGACKTだ。

ある種の叶姉妹的なセレブビジネスであり得体のしれない怪しさが「芸風」でもあったりする。「東南アジアに豪邸を持っている人」というのもイメージ戦略の一環なのではないだろうか。

 

そもそも日本人がアジアに生活の拠点を求めることはこれからよりメジャーになっていくかもしれない。少子高齢化や経済成長の終わりと共に日本人の考え方や金銭感覚がどんどんと貧しくなってきている。そういう時代にこうやってGACKTがセレブ芸をすることでそこに憧れる人も増えてくるし、お金持ちを多くの人が目指している時代の方が将来は明るい。

そういう意味で国自体が先進国をめざし明るい未来を思い描き、国民の多くが出世しようと考えているマレーシアのエネルギーというのはかつての日本のような情熱があるかもしれない。最近の日本に少なくなってきた上昇志向がありバイタリティや野心のある人間はその雰囲気を求めて東南アジアに移住しにいくのだろう。

 

経済国としては日本はオワコンの領域に片足を踏み入れつつある。考え方がどんどんと貧しくなり、お金を使いたくない人が増えたり、そもそもないから使えないという人も多い。そうやって悪循環に陥り使わないからますますお金が流通しなくなり経済成長が鈍化しているのが今の日本ともいえる。

 

どんどんといろんなものが盛り下がっていき、今の若者が中年層や高齢者層になったときには完全に東南アジアに追い付かれ「日本って先進国だったんだよ」「世界で2番目の経済規模だったときがあるんだよ」という時代になっていくだろう。そういうオワコンにどれだけ早く見切りをつけられるか、それともここから日本を立て直していくのか。

情熱がなくなりノリが悪くなり、後ろ向きになりリスクを取らないしそもそも欲望がない。さんざん言われつくしていることだが今の日本人はそういう人が増えており、ゆとり世代だけというわけでもなく全世代がだんだんと後ろ向きになってきている。

 

そういう中で数少ない野心がある人がどれだけ海外に活路を見出していくか。

「日本脱出」ということも囁かれ、移民を入れるというよりも日本人が海外に移民をするという考え方のほうがスタンダードになっていくかもしれない。

完全に日本を去るというわけでもなくまさにGACKTのように6割は東南アジア、残りは日本というようなライフスタイイルの人も増えていくかもしれない。それで言えたば中田英寿もまさにその先駆者であり「旅人」的なスタイルは今後日本の上流層では主流になっていくし、それが日本人にとっての憧れになっていく時代が来るかもしれない。

少なくともずっと日本だけで生活するという考え方はもはやオワコンになり過去の考え方になっていくだろう。

 

江戸時代の鎖国が終わり日本人が海外に行く明治時代が到来したように、いわば鎖国に近い状態だった戦後の構造は終わり、これからは海外志向の時代になっていくのではないか。歴史は繰り返されるというが、昭和が終わり21世紀がやってきた現代というのはまさに明治維新や文明開化の時代に似ている物がある。

当時は欧米列強が脅威だったが今では他のアジアの国々が日本の脅威になりつつある。欧米がオワコンになりアジアの時代がやってくる、その中で日本がそのアジアの時代に転向できるか。

かつては欧米組だった日本が今度はアジア組に転向することができれば、日本は衰退せずに済むかもしれない。今まで日本は欧米と肩を並べるという意識があったかもしれないが、これからはどうアジアの時代に適応していくかという時代になるのではないか。GACKTのアジア放浪の話からだいぶ話が飛躍したがこれから日本人も考え方をGACKTのように変えていかなければならない時代になるかもしれない。

少なくとも一つの国だけで生きていくという考え方はもはや過去の時代であり、非常にリスクが高い事でもある。リスクを取らないことがむしろリスクになってきている。

海外を神格化するわけではないが、日本の安全神話も崩れかけてきている。

海外は理想の桃源郷ではないが、日本の問題も深刻である。リスクを分散し程よく両方を行き来するという考え方はこれからよりスタンダードなものになっていくだろう。GACKTがマレーシアへの移住を選んだことはそういう時代の象徴なのかもしれない。

悲報:五郎丸さん、1年でフランスから帰国へ

「あの人は今」という状態になっていた五郎丸歩、数年前のラグビーフィーバーによって急にスターダムに上り詰め五郎丸ブームや五郎丸ポーズという言葉を生み出した。

しかしそのブームも続かずすっかり話題にされなくなったラグビーや五郎丸、その時のブームを考えると考えられないような勢いで収縮していった。

その中心にいた五郎丸選手は、移籍したフランスラグビーリーグのトゥローンを退団し国内に復帰することとなったようだ。

 

ラグビーの本場フランスの空気を吸えばタックルが上手くなると思っていたのかなぁ」というような声が聞こえてきそうなぐらいパッっとせず完全に過去の人になっていたのが五郎丸だ。

1年契約で活躍すればもう1年延長という契約だったらしいがその延長もなく今回帰国することが既定路線になっている。

 

ただ日本のラグビーと欧州のラグビーの差を考えたときにトップリーグ所属の選手がいただけでも大きな進歩であり、どのスポーツもそうやって先駆者がいる事によって発展していく。

フランスはニュージーランドと並んで強豪国であり、サッカーでいえばプレミアリーグに行って通用しなかったようなものだろうか。

ただその意義がある一方で今回の五郎丸の海外挑戦については賛否両論がある。結局のところまぐれのような形で南アフリカ相手にワールドカップで勝利したことで、実力以上に祭り上げられ本人も周りも若干勘違いしたような節があるのかもしれない。実際日本でトップクラスの実力を持つ五郎丸ですらほとんど通用せず帰ってくるのが現状のラグビー界の世界との差だった。

 

本来ならば人気絶頂の時に海外に行くのではなく国内ラグビーブームを盛り上げることに集中したほうがよかっただろうし、こういうマイナースポーツは数少ない全国区の知名度を持つ選手が国内リーグにいなくなると波が引いていくように人気や盛り上がりが収縮するというパターンが多い。

例えるならばKAT-TUNで全盛期に赤西がアメリカ留学しに行ったようなもので、大事な時期に海外に行ってしまうとブレイクするチャンスを逃してしまう展開になる。

結果論ではあるけどもKAT-TUNも赤西が止まっていれば当時の勢いそのまま成長して嵐を超えるぐらいの大きなグループになっていたかもしれないし、ラグビーも五郎丸が止まっていれば野球、サッカーとまではいかなくてもバレーやバスケぐらいの存在にはなれていた可能性がある。ラグビー関係者からすると「ようやくラグビーが盛り上がってきたこのタイミングでなぜ移籍したのか」という思いはあるだろうし、結果としてラグビー界は人気を確立することに失敗して今ラグビーは話題にもされなくなっている。

国内での人気基盤が個人の選手に支えられている場合は、その選手流出が致命的なことになりかねないということを今回の五郎丸の海外移籍は示したともいえる。

 

元々ラグビーは昭和の時代に大学ラグビーがサッカー以上に人気だった時代が存在しており、Jリーグ発足以前はサッカーがマイナーでラグビーが人気だった時代がある。

ただ日本のラグビーが世界に進出したとき世界相手に通用せず徐々に盛り下がっていく結果となった。日本人は世界で活躍する日本人や日本代表が見たいわけであって世界との差という現実を知ったときに盛り下がっていく傾向がある。

ガラパゴス文化として鎖国的な状況にした方が国民的なスポーツや文化として盛り上がるケースは多い。たとえば相撲も今ようやくブームが復帰してきたけどもほとんど外国人力士がいない時代の方が国民的な文化になっていたし、囲碁も中国や韓国の棋士勢力を伸ばして日本ではかつての地位を失って行った。

ラグビー大学ラグビーだけで盛り上がっていた時代の方が結局は良かったのかもしれない。

今回五郎丸というラグビー界待望のスターが現れたにもかかわらず、また海外に行って「世界との差」を明らかにしてしまったことで日本人の多くが萎えてしまったという現実は存在する。ある意味同じ轍を踏んだのがラグビー界かもしれない。

 

自分自身はそういうガラパゴス文化鎖国文化に反対ではなくむしろ最近そういう文化の大事さを理解してきてもいる。たとえば将棋はあえてグローバル化をせずに日本だけで盛り上がっておりこれが非常に成功している。無理に何でも国際化してグローバルスタンダードに合わせるよりも、国内人気を大切にしようという考え方も盛り上げるためには必要であり、そうやって国内だけで独自の文化に盛り上がっていた時代が実は幸せだったともいえる。ガラパゴス化は決して悪い事ではないしそういう時代の方が日本は上手く行っていた。

芸能に関しても海外からいろんなグループが入ってきたり、国内でもさまざまな他事務所のグループが乱立するよりもジャニーズのたのきんトリオ光GENJI、全盛期のSMAPのようにジャニーズだけで盛り上がっていた時代の方が華やかだったともいえる。リアルタイムを経験した人の話を聞いたり、その頃の過去映像を見たりするとその時代は華やかだったんだなと最近思うことが多い。

いろんなものが国際化したり細分化していく時代にあえて一つのことで盛り上がっていたガラパゴス文化や鎖国文化の素晴らしさというのは再評価されてもいいのかもしれない。実は無理に海外との交流を増やすより、国内文化が成熟していた時代の方が幸せだったのではないかとも思う。無理に世界との差を考えずに日本は日本だけで盛り上がっていた時代というのが日本も上手く行っていたしそれが逆に世界レベルになっていた。

 

結局こういうスポーツ選手の海外挑戦というのは「あの選手実は大して凄くない」という現実が浮き彫りになってしまう側面がある。

三大何しに海外に行った選手

五郎丸歩 木村沙織 田臥勇太

レジェンド:山口蛍

今回の五郎丸は本当に何をしに行ったのかというぐらいインパクトを残せなかったし、木村沙織がバレーのトルコリーグに挑戦しに行っていたことを知っている人がそもそもどれくらいいるだろうか。

そして日本バスケ史上最高の天才といわれた田臥勇太NBAではほとんど何もできなかった。田臥の場合は一応NBAで試合に出れただけでも実はすごいことではあるけども、いくらなんでもアメリカとの差がありすぎるという現実が明らかになってしまった。野球のMLB挑戦とまではいかなくても、田臥勇太ならもう少しアメリカでやれるんじゃないかという期待は移籍当初あったと聞く。

 

木村沙織も日本でできていた連係プレーが外国人チームではあまりできず、「個」ではあまり通用せずバレーの国際大会でみせるような代表の時の輝きはほとんど見せることができなった。プレースタイルの変更をしたりベンチを温めるなど迷走が続き、実質黒歴史のような形で日本に復帰した。

普段リーグ戦を見ず代表のバレーを見るぐらいにしか知らない人から考えると「代表の時あれだけ活躍しているのに個人で移籍したら通用しないんだ」という風になってしまい、今回それと全く同じことが五郎丸でも起きたように思う。

 

特にこういったフィジカル重視のバレーやラグビー、バスケのようなスポーツは身体能力の差が露骨に出てしまい個人での活躍は難しい。日本人選手は連携ありきの選手がどうしても多くなってくるし、世界に対抗しようと思ったらその連携を極めるしかない部分がある。それゆえに代表でチームとしてどうするか、そして国内リーグをどう盛り上げるかが重要になってくる。

そのところの事情はサッカーや野球とはだいぶ違うのかなというのはある。

野球とサッカーは既に国内リーグが成熟しており、特定の人気選手に依存しないレベルで定着しておりすでに海外で活躍する選手も多い。それゆえに「選手の流出」という事はそれほど問題にならない。

 

ただそのサッカーでも出戻りと言えばレジェンドの山口蛍が存在する。もはや三大ではなくレジェンドでありホタさんだけ別格のスピードで帰ってきた。まさに日本スポーツ界の出戻り史に残る偉業である。

柴崎岳がホタさん越えすると危惧されていたが最近ようやく試合に出始めて定着してきている感はある。そういう例を見ると地味でも海外にしがみつけてる選手はそれだけで凄いとは思う。中には批判されまくっても海外にしがみついて堂々と居座る選手もいるしそういう選手が代表では活躍したりすることが多い。最近では意地でもJリーグに復帰しなかったゴールキーパーの川島が活躍して再評価されている。そういうメンタルの強さが無ければなかなか海外挑戦で結果を出すことは難しい。日本人アスリートが海外で通用するというのはそれだけで本当に凄いんだなと改めて思わせられる。

 

ただ通用しなかったとしても、いずれは世界との差を埋めようと思ったら誰かが挑戦しなければならない事であり、それを国内で一番有力な選手がチャレンジすることは素晴らしいことでもあると思う。

そういう意味で五郎丸や木村沙織田臥勇太の挑戦は決して無駄ではなかった。

野球も野茂がいたり、サッカーでは奥寺やカズのような存在がいる。発展しようと思ったら他のスポーツでもそういう選手が出てこないといけない。

問題は国内リーグの盛り上がり個人の海外挑戦どちらがそのスポーツにとって有益になるかという事であり、基本的には国内リーグが成熟してから海外挑戦する流れが特にマイナースポーツでは重要ともいえる。

国内で唯一知名度がある選手が海外に行くというパターンは時としてそのリーグ全体に盛り上がりを大きく左右する。実際キングカズもJリーグ初期の盛り上がりのためにブラジルから帰国したり、女子サッカーでもなでしこブームの時は澤は再び海外挑戦することはなかった。

近場で見に行ける場所にスターがいるということは大事で今はアイドルでも「会いに行ける」という時代になってきている。海外挑戦にも価値は当然ある一方で、国内にいることの重要性は前述のガラパゴス文化再評価の流れで考えると軽視できない物がある。

 

その意味で五郎丸の今回の移籍は、全盛期に行ってしまったことで国内ラグビーリーグの話題が一気に収縮してしまった感はあるし個人としても活躍できなかった。挑戦したことに意味はあるけどもタイミングを考えるともう少し後でもよかっただろうし、五郎丸個人もラグビー界も共倒れのような形になってしまったことは否めない。

改めて日本人スポーツ選手の海外挑戦が持つ意義について考えさせられるケースなのではないだろうか。誰が行くのか、どのタイミングでいくのか、国内リーグの盛り上がりと個人の海外での活躍とどちらがそのスポーツにとって最適なのか。

実はレベルの高さを求めて海外に行くよりも、国内で盛り上がっている「雰囲気」のほうが「興行」ということを考えたときに大事なのではないか。そういうことも今回のことで改めて分かった。国内リーグを盛り上げて、個人ではなく代表チームが海外の代表チーム相手に通用することのほうが日本のスポーツ界にとっては理想的なのかもしれない。また国内リーグを海外に行かなくてもすむレベルまで強化したほうが最終的には代表チームも強化できる。

もちろん海外で個人がレベルアップすることが代表の強化にはつながらないというわけではないけども、その挑戦は時として国内リーグの盛り上がりを減衰させることもある。特に国内リーグ基盤が脆弱なマイナースポーツほどそのことを考えなければならないという事例が今回の五郎丸海外挑戦の総括であるように思う。

本田圭佑さん、ACミランで出番無いのにウッキウキでワロタw

イタリアセリエAの名門ACミランに所属する本田圭佑だが最近はパッとせずとにかく良い話は聞かない。日本代表でも定位置を奪われておりもはや絶対的な「王様」という状況ではなくなっている。

クラブでも代表でも居場所がなくなり出番は少なくなっている。本人も認める通り「ロートル」であり下り坂の選手であることは間違いないだろう。

輝かしくACミランに入団したものの活躍したのはインザーギ体制の前半戦だけでありその契約を今夏で満了し退団することは既定路線である。

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そんな本田圭佑の最新の姿がこちら。

まるでベンチのパンキナーロとは思えない開き直りっぷりでありチームメイトとも談笑。むしろACミランのエースやボスかというぐらいの風格を見せており謙虚さのカケラもない。普通この状況であるならばもう少し落ち込んでいる姿や悲壮感漂う姿を見せるものだがそこは本田圭佑、むしろ相変わらず「ここは俺でしょ」という雰囲気を漂わせている。ベンチやノーゴール、代表ですら定位置を奪われている人間とは思えないような堂々とした姿である。

 

普通の神経をしているならばこの状況でっこまで堂々としてはいられないだろう。

しかし本田圭佑、いい意味で図太いし図々しい。本田圭佑の面の皮の暑さは簡単にははがれない、そしてそのメンタルの強さも折れはしない。

人間の本当の実力は上手く行っている時ではなく上手くいっていない時に試される。誰もが自分は上手く行っているときは元気になるし楽しくいられる。問題は上手くいっていない時や先行きが見えない時である。そういった極限の状況下でこれだけ開き直れるか。

本田圭佑にはそういった厳しい状況下で発揮されるメンタルの強さがある。

誰もが批判する状況でむしろ「俺がボスだぞ」感をだし、図々しく自分の立場を主張。決して卑屈になりはしない。

 

結局のところサッカーというのはこういう選手が通用するのである。

ロシアワールドカップでも何食わぬ顔で出場しゴールを決めるだろう。順調で楽しいときは上手くいプレーをする選手というのは日本にいくらでもいるし整った快適な環境でならば上手い選手は多い。その一方で極限の状況下や厳しい状況下ではその技術を発揮できなくなるのが日本代表の弱点でもある。

ブラジルワールドカップでなんだかんだで世界相手の本番の試合に通用していたのは本田圭佑でありその前の南アフリカワールドカップでの活躍は言うまでもない。普段テクニシャンとして持てはやされている選手がことごとく本番の舞台ではヒヨコのようになり本当に戦える選手かどうかが試される。

 

とにかく本番や逆境に強いのが本田であり普通の人間なら心が折れる場面でも平然としている。

本人自身「心が折れたことはない」「サッカーで緊張したことはない」とふてぶてしく主張しており、「所属先のクラブで出場していない選手は呼ばない」という現日本代表監督の方針とは関係なく代表に呼ばれ恥も見聞もなく出場している。

 

今の日本代表、そして日本人に求められるメンタリティというのはこういう図々しさやふてぶてしさに近いメンタリティなのかもしれない。

「まったく恥ずかしくもないですけどね」というぐらいに開き直って自分の「個」を主張する。

それくらいの図々しさというのを特に若い人間というのは持っていかなければならない。大人しい人間というのは駆逐されて競争に負ける。どれだけ素晴らしい才能や技術を持っていてもメンタルに左右されてひ弱ならばそれは大事な時に通用しない。

 

ダサくても海外にしがみつく本田と、日本に出戻ってくる選手、どちらがいいかというのは一概には言えないけども石にかじりついてでもかっこ悪い姿晒してでも堂々としている本田圭佑の生き方はある意味才能でもある。100%理想となるようなお手本ではないかもしれないけどそれは若手のサッカー選手だけでなく、今の若い世代にも参考になるかもしれない。

 

少なくとも自分はそんな本田圭佑が好きだし恥を晒しても失敗しても「何やねんこいつ」と思われてもブレないところというのは尊敬している。批判されまくって嫌われまくっても代表や海外名門クラブのレジェンドに空気を読まず「ここは俺でしょ」と主張したり、堂々とチームメイトやクラブの体制を批判する、そういう個の強さや我の強さというのは今の日本人に足りなくなってきている要素なのかもしれない。

 

誰もが空気を読んで和を乱さない組織の一員を目指している時代に、あえて和を乱す異分子スタイルを貫く本田圭佑のやり方は逆に勇気のいる事だ。

「常識で考えたらそういう個とはせえへんやろ」ということをどれだけ愚直にできるか。こういういい意味で空気を読まず批判覚悟で好き勝手やる人間というのが今は少なくなってきているし、そういうエネルギーを持った人間が絶滅危惧種になりつつある。

出る杭は叩かれるけど出過ぎた杭は叩かれない。

叩かれても「なんでいつも俺なんだ?」とふてぶてしく開き直るような人間のほうがいざという時は頼りになる。

ロシアワールドカップではもしかしたらその本田圭佑が日本全国の手のひらを返させるかもしれない。なんだかんだで重要な時に決めてしまうのが本田圭佑という男だろう。

「まぁこれだけ叩かれてもむしろ目立ってる気がするし、そういう人たちってゴールさえ決めれば一瞬で評価変えますからね」ぐらいに考えているのが本田だろう。それをわかっているからこの絶望の状況下でも本田圭佑は明るい。それは今の逆境で生きる現代日本人にとって多くのヒントをくれる姿なのではないだろうか。

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日本でイスラム過激派テロは起こり得るだろうか?

21世紀というのはテロの時代である。21世紀の始まりである2001年はテロと同時に始まった。

陰謀論に関しては様々な考察があるが9.11同時多発テロは2001年にアメリカで始まりその後世界中にテロリズムは蔓延していくことになる。アメリカ、ヨーロッパ、そしてアラブ諸国、アフリカ諸国などでもテロはもはや世界の日常光景になっている。

とくにISISの勢いが増した2010年代以降は先進国の民間人をターゲットにしたテロが急増しており、テロというものが遠い国の出来事ではなく日常の物になってきているのだ。

 

その主犯格であるイスラム過激派の最終目標は「世界のイスラム化」である。

彼らは近代以降に成立した国際領土に対して異議を唱えその構図を問題視している。更に言えば近代文明以降の世界に対しても批判的であり、原始イスラム教の時代を神格化しておりすべての生活様式アッラーが存在していた時代に回帰させようとしているのだ。

実際にイスラム過激派の構成員がサッカーの試合を見ていた時に彼らを処刑している。

アラブ諸国でサッカーが盛んであり文化として根付いているにもかかわらず西洋発祥のスポーツ観戦文化を断罪しているのだ。

にもかかわらず彼らはそのテロの手段にAK47のような西洋生まれの銃や、スマートフォンなどを使ったSNSでの布教活動を利用している当たりダブルスタンダードである。まるでコーラを飲みながらアメリカ批判をするような構図と似ている。西洋文明批判のために西洋の手段を使っているのだ。

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彼らイスラム過激派は段階的に計画を立てている。

10年ごとに勢いを拡大していくとするイスラム過激派のプランが存在しており、このISISの活動は第三段階のような領域に差し掛かっている。

例えば有名なイスラム過激派勢力が考える将来の勢力図だがかつてイスラム勢力が支配した地域を奪還すべき領土として主張している。

かつてスペインがキリスト教勢力に領土を奪還するためのレコンキスタとして領土回復運動を行ったように、今「逆レコンキスタ」ともいえる事態になっているのだ。そして領土回復だけにとどまらずその理想社会たるイスラム社会を全世界に拡大することがまさに現在の過激派が提唱するジハードの最終目標であり我々日本人も当然ながらそのジハードの対象に入っている。

宗教の共存というのは過激派にとってはあり得ない事であり、日本だけ例外という都合のいい考え方は存在しない。彼らは本気で世界のイスラム化を信者に教え込んでいるのだ。

では日本にそのテロが波及する可能性は現実的に考えてどの程度なのだろうか。

そのことを考える前にそもそも日本がテロとは無縁であるという考え方を変えなければならない。今現在日本はテロとは無縁の国のように見えるが実はこういう街中のテロというのはかつて日本でも行われていた行為なのである。それも戦前ではなく戦後だ。

それは学生運動が盛んだった時代の極左テロにまで遡る。

指名手配犯のポスターを見たことがあるならば見たことがあるかもしれないがかつて「東アジア反日武装戦線」という極左団体が存在した。彼らは日本帝国主義を擁護する存在として三菱重工などのビルに爆発物テロを敢行し一部の実行犯は未だに拘束されていない。それゆえに現在の指名手配ポスターにも掲載されているのだ。

更に東大学園紛争、安田講堂占拠事件、よど号ハイジャック、イスラエルのテルアビブ空港での日本赤軍による銃乱射事件、ダッカテロ事件など実は日本人が日本や海外でテロを行っていた時代があるのだ。むしろイスラム過激派より先にテロを行っていたのが日本人であり、彼らはその手法において日本のやり方を参考にしている。

聖戦の自爆テロの考え方も元々遡れば先の対戦における神風特別攻撃隊の理念にヒントを得ている部分がある。

 

今一番先進国でテロと遠ざかっている日本が実は元の部分で言えばその原型に通じる部分があり、必ずしも他人事とは言えない実情がある。

日本人の中でも戦後初期を生きた世代の人々の中には極左=テロ」と認識している人も少なくなく、そこから60年代、70年代の過激派学生運動へとつながっていくことになる。

 

そういった歴史背景を考えたときに日本がテロと無縁と考える事はあまりにも無理がありすぎることだ。宗教問題関係なしに日本では秋葉原の加藤事件や宅間守の池田小事件のようなこともたびたび起きている。

日本では社会に不満を抱えくすぶっている層が非常に多いのだ。日本のネット上にも「リア充」や「勝ち組」への怨嗟の声があふれており、それらは西欧の移民社会の人々が白人の上位層に覚える憎しみと通じる部分がある。

底辺生活を送り自分の人生の浮上の見込みがない人間が「持つ者」をターゲットにした事件は枚挙に暇がない。そこにイスラム過激派の思想が融合したり、かつてのような極左テロのような理念が加わった場合これらのテロが日本においても復活する可能性は否定できない。

今の日本は歪んだ社会構造になっており先行きが見えない。

恵まれた人間だけが得をし底辺生活を歩む負け組には居場所がなくなってきている。

持たざる者や負け組はひたすら蔑まれ馬鹿にされる。もはやインターネットでもSNSはもちろんのこと匿名掲示板ですら自慢大会の場所と化しており、負け組や持たざる者、恵まれない人間の居場所は少なくなってきている。いま日本人は誰もが見栄を取り繕い自分より下の人間を探している。そしてその下に置かれた人間は当然上の人間を憎むだろう。

失敗した人間にとっての社旗復帰の道もそれほど多くはなく、成功者になる手段は限られている。

 

そういう不満が暴発したとき、成功者や恵まれた人間を巻き込んで、自分だけは天国に行くというイスラム過激派の考え方は地下のアングラで普及していく可能性がある。

イスラム過激派の思想とは別に「負け組が勝ち組を打倒する」という考え方がすでに日本では普及しており様々な事件が起きている。そこにイスラム過激派の思想が融合したとき、「移民がテロを起こす」ということから発展して「現地社会の人間がテロを起こす」という流れが作り出される可能性はある。

 

これまで欧州でテロを起こしている勢力はあくまでイスラム文化圏に出自を持つ者がほとんどだったが、これからは現地の人々がテロを起こす時代になっているかもしれない。実際西洋においてもイスラム過激派は現地の白人にまで普及活動を行っており、キリスト教からイスラム教に改宗する人は少なくない。

代表的な有名人で言えば元フランス代表のフランク・リベリーイスラム教に改宗しており、生粋のフランス人ながらイスラム教徒になっている。

こういった改宗の例というのは少数のケースではなくイスラム教に改宗する西欧社会の白人というのはもはや珍しい事ではなくなっている。

また近年ではインターネット上における布教活動も行われており、従来のイスラム移民が多い地域だけがイスラム過激派の危険にさらされるという考え方も時代遅れになってきている。

 

つまい何が言いたいのかというと、いわゆる純日本人が今イスラム過激派の思想に傾倒する可能性があるという事なのである。

必ずしも海外からやってきたイスラム圏出身者だけが過激派テロの要因になるわけではなく、現地の住民が改宗しその社会に敵意を向ける可能性もあるのだ。

実際日本人からイスラム教に改宗する人というのは皆無ではなくすでにインターネット上でも活動を行っている。また宗教団体による事件は日本では珍しくなく新興宗教の数は膨大であり、オウム真理教のように実際にテロの実行に移ったケースまで存在する。

日本人の多くが無宗教であり移民も少ないからテロが起きないだろうという考え方はこれからの時代通用しなくなっていくだろう。純日本人が過激派に転向する例もあれば、他の宗教による行動も考えられる。オウム真理教の事件はそれほど遠い昔ではなく、極左テロも戦後の事である。何かのイデオロギーのためにテロを行うというのは決して日本で皆無というわけではなく、むしろ世界的に盛んな地域や発祥の地域だとも考えられるのだ。

オウム真理教による事件は世界初の民間人を対象にした化学兵器によるテロだ。それにもかかわらずなぜか日本は平和であるという幻想が世間を覆っている。その警戒心の無さはまさにテロを行う人間にとって好都合である。

更に恵まれた人間と恵まれていない人間の格差が鮮明になってきている現代ではより一層社会への不満も醸成されやすくなってきている。このテロの問題が他人事のように思えないのは自分だけだろうか。

オールド・テロリスト 著:村上龍

 

また現在では日本社会全体が行き詰っており限界に直面している。このような状況で一度社会を破壊して戦後直後に戻した方が良いというような終末論も出始めている。前代未聞の少子高齢化に直面している日本では確実に限界がやってくるだろう。

絶望的な未婚社会にも突入し、誰もが先行きの見えない暗い時代になってきている。

人生を楽しんでいるのは一部のリア充や既得利権層だけである。若者が希望を見出せずその若者中でも更に恵まれない若者はもはや社会に何の愛着もなくなっている。こんな社会破壊してしまおうという終末論を唱える人間も今や珍しくない。

人生のやり直しがきかない中年層や、先行きに希望を見出せない若者層がこのような終末論に走る。

そう考えたときにテロの土壌や温床というのは欧米諸国以上に日本は存在しているのではないだろうか。もしかしたら欧米ですら起こり得ない前代未聞のテロが発生する可能性すらある。

欧米諸国のようなテロではなくむしろそれ以上のテロが起こるのではないか、自分にはそんな危惧がある。この歪んだ社会に復讐したいと考えている人はこの日本にいくらでもいるだろう。西欧の移民社会のテロリストより高度なテロを行う可能性すら考えられる。テロと無縁だと思っていた日本が次世代のテロに見舞われる可能性は否定できない。

21世紀は間違いなくテロとの戦いの時代である。日本だけがこの問題とは無縁であるという考え方はあと10年もすれば完全に過去の問題となっているであろう。