マジでマリーヌ・ルペンがフランスで勝ちそうな気配あるよな
最近フランスでマリーヌ・ルペンの勢いがとんでもないらしい。
この状況では本当に国民戦線がフランスで政権を取ってしまうのか?という報道がされるようになってきているし、トランプが政権を取ったこともありその可能性は軽視できないようになってきている。
ただ自分はそもそも「政権を取ってしまうのか」というような言葉自体が何かルペンや国民戦線が政権を取ってはいけないような言い方のように聞こえるし極右政権の危険性など少しバイアスがかかった見方のように思える。
正直な話今のフランスがそういった保守政権を求めるのは自然な流れだ。
国内でテロが起こり、トラックにのったテロリストが罪のない市民に突撃し多大な犠牲者をだしパリの街はあふれかえった難民の出すゴミやいつテロが起きてもおかしくないという恐怖が支配している。ゴミと恐怖が今フランスには蔓延しているのだ。
しかもそれが首都である。
日本に置き換えてみればなおさらわかりやすい。
東京がどこかの国からやってきた移民だらけになりスラム街のようになり、もう何度もテロが起きているのだ。いつ自分や家族の身に危険が降りかかるかわからない恐怖が今フランスを覆い尽くしている。
更に言えば人口比率も次々と変わり今我々がイメージする白人系のフランス人はかなり少なくなってきている。ベルサイユの薔薇でイメージするようなオシャレなフランスは今急速に失われつつある。
自分はサッカーファンでもあるのでサッカーフランス代表を見るとその移民の多さを実感している。ただその移民系の選手はいわば合法的な移民であり素晴らしい選手たちも多い。ポグバやヴァラーヌを悪い移民であるように批判するつもりはない。ベンゼマに関しては少し問題があるがそれは一部の選手だ。歴史においてもジダンはアルジェリア系移民の子孫でありフランスに移民がもたらした功績は大きい。
移民系であってもラ・マルセイエーズを歌う者ならばフランスでは受け入れられる。
1998年フランスワールドカップでフランスが優勝したときは多様性の時代の本格的な幕開けであった。その時は未来はバラ色であるかのように思えた
フランスが選んだ自由平等博愛の理念、革命によって勝ち取った平等の精神、忍耐、寛容。フランス人はその価値観を非常に愛してきた。
しかしその時代はいつまでも続かなかった。
今やフランスはスラム街のようになっている。我々がイメージする美しいフランスは確実に姿を消しつつある。
実際フランスの人気スポーツでも実はラグビーが人気になってきている。それは白人比率が高いからだ。今フランスはそういった状況の中で確実に右傾化してきている。いや社会民主主義という理念によって左傾化しすぎていたものが中道になってきたというのが実体であろう。移民反対を極右と呼ぶのならば、移民賛成を極左と呼ばなければフェアではない。つまりこういった一方的なレッテル張りで政治を語ること自体がナンセンスなのだ。
マリーヌ・ルペンや国民戦線について極右と呼ぶことはそれだけ支配的なメディアにとって都合の悪い存在であるという事なのだろう。しかしマリーヌ・ルペンは実際の所中道右派といった政策に近い。父親のジャン・マリー・ルペンは本物の極右だったが娘のマリーヌはそれほど極右ではない。通常の右派だ。ただそれがあまりにも左傾化しすぎたフランス社会においては極右に見えてしまうという構図だ。
さてこのさきの展望についてだが自分はルペンと国民戦線は勝利するとみている。実は自分のここ最近の選挙の予想はすべて当たっているのだ。
最近あった安保選挙は自民党の圧勝
イギリスのEU離脱選挙も小池百合子の都知事選挙も、そしてトランプの大統領選挙も全て自分の予想通りになった。一応芸能人では指原莉乃の選挙2連覇も当たっていて、最近自分は選挙予想に強い。指原の選挙を同列に語っていいというわけではないがとにかく最近選挙予想で負けたことが無い。
いや正確には予想というよりも希望だ。
どれも自分が勝ってほしいと願う勢力が勝利した。
正直自分は今度の選挙でもフランスの国民戦線が勝ってほしいと思っている。
自分はフランスやフランス文化が好きだ。しかしその文化はシャルル・ド・ゴールの時代や1920年代のフランス文化黄金期、パリ万博の頃などの文化だ。
フランス筆記体は綺麗だし、画家も料理も最高だ。フランス軍もかっこいいし、ドゴールがNATOを離脱して自主性を重んじたフランスの価値観も好きだ。空母や戦闘機を独自開発したり必ずしも欧州のなかに埋もれることなく独立性を重んじてきた。
そういうフランスのかっこよさに自分は憧れる。多くの日本人が愛するフランス文化のほとんどが今の移民社会が生んだものではない。海の向こうのフランス文化愛好者としては素晴らしい文化をこれからも生み出し続けてほしいので保守勢力の勝利を願わずにはいられない。
そしてマリーヌ・ルペンや国民戦線の支持者もきっとそういう時代に憧れているのだ。
アメリカ大統領選挙では予想外のことが起きた。
隠れトランプ派が勝利の要因になったのだ。フランスにも確実に隠れトランプ派のように隠れルペン派がいる。フランスより更に移民化が進んだアメリカですらトランプが勝ったのだ。欧州屈指の移民社会のフランスだが、アメリカほどではない。さらにテロで日常的に危険にさらされている。
アメリカでは都市部で共和党は勝利できなかったがむしろフランスでは都市部の方が反移民感情は高いかもしれない。
更に地方でも古いフランスの価値観を大事にする人が多いはずだ。更にロシア政府が国民戦線を後押ししているという裏事情もある。この世界的な右傾化の流れはフランスにも確実にやってきている。
そう考えると国民戦線が勝つ可能性は非常に高い。
そして仮に国民戦線が勝利したらフランス社会は変わるのだろうか、戦争は起こるのだろうか?極右政権というとどうしても戦争というイメージがある。ナショナリズムは無条件に否定されるのが現代社会だ。
仮にEUから離脱した場合イギリスと接近する可能性は高い。
実際の所EUというのはドイツの1人勝ちに近い状況になっている。
英仏のような欧州離脱組が新しい組織や同盟を作るかもしれないし、残ったEU組はドイツをリーダーに新しい時代に歩むかもしれない。1つの欧州という理念がなくなり、今度は欧州内で2つに勢力が分かれるかもしれない。
英仏VSドイツとドイツに依存する国家
こういった構図は世界史で何度も見かけてきた光景だ。
英仏の離脱に憤慨したドイツ、そしてドイツと接近する中国
ドイツと中国は非常に密接な経済的なつながりがあり歴史的にも関係が深い。
そしてロシアは逆に反EUを支援しており、その流れで国民戦線も支援している。
英仏露VS独
第一次世界大戦で見かけたような構図だ。
更にここに中国が加わり、ドイツ中国の同盟が完成すれば怪しい雰囲気が漂い始める。ドイツは欧州に味方がいない時アジアに同盟を求める。まるで70年前にあった光景だ。そしてアメリカはアメリカファーストでもはや他国の戦争にわざわざ血を流すことや税金を投入することを嫌っている。
仮に第三次世界大戦のシナリオがあるならばドイツと中国で組んでロシアは意外に英仏の味方に付き中国とは対立する。元々中ソ対立を見ても言う程仲が良くないのが中国とロシアだ。アメリカは対戦の後半に遅れてやってくるといういつものテンプレ。
日本は簡単だ。歴史の教訓からアメリカのいる側につけばいい。アメリカが参戦しないなら日本も参戦しない。何のために苦労して安保を成立させたかと言えばアメリカの知覚にいるためである。アメリカについていけば戦争では負けない、もう負けるのはこりごり、これは歴史の教訓だ。
ロシア、イギリス、フランス、アメリカのような右傾化勢力
そしてドイツのような連合勢力
EUという連合組織の甘い汁をすすっているドイツはその維持に努めたいという思惑があるし、双方の貿易で利害関係のあるドイツと中国はこれからも接近するだろう。
徐々に次の時代の勢力図が自分には見えてこないだろうか。
自国優先で保守主義に走りたい国と、EUのような連合組織やグローバリズムを維持したい国との対立は今後鮮明になってくるかもしれない。保守主義側が自国の利益のために強硬なことをするのか、グローバリズム側が既得利権を保持するために強硬なことをするのか。
架空戦記のような話になってきたがその対立が次の時代の象徴になるだろう。
更にここに宗教問題も絡んで来る。保守主義の遠因は宗教問題であるし、宗教問題の遠因はグローバリズムでもある。これらの問題は相関していて一つの問題として切り離して考えることはできない。
メディアの報道だけでなくそういった背景を考察しながらこの問題について考える姿勢が今求められているのではないだろうか。
東欧の狙撃手ルカ・モドリッチのプレースタイル
現代サッカー界で最高のセントラルミッドフィルダーといえばルカ・モドリッチは間違いなく最有力候補だ。
クロアチア生まれのこの非凡な才能をもった天才司令塔は今レアル・マドリードに戦力として活躍する。そのプレースタイルはまさに狙撃手のように正確無比な長短のパスを使い分け仲間をサポートしつつ、時には自分自身がミドルシュートを狙い抜く。
中盤のコンダクターとしてあらゆる場所に顔をだし、2.5列目、3列目、そして1.5列目など縦横無尽にポジショニングを変更しあらゆる場面で効果的な動きをする。90分トータルで見たらもっともそのチームのサッカーに影響を与えていると言っても過言ではない選手だ。
レアル・マドリードでもモドリッチがいるときといない時ではそのサッカーの質ががらりと変わる。
キック精度、キックセンス、ポジショニング、ドリブルテクニック、守備センス、あらゆる能力を高次元で使い分ける万能型の司令塔だ。サッカーの本場スペインにおいてもそのテクニックは高く評価され愛される。
時としてテクニカルで美しいスタイルを愛してやまないバルセロニスタからもライバルチームという垣根を越えて賞賛される選手だ。
彼のその華麗なプレースタイルを生み出したのは旧ユーゴスラビアのクロアチアという土壌だろう。元々ユーゴスラビアは"東欧のブラジル"と言われ華麗なプレースタイルを持つサッカー選手を数多く輩出してきた。
天才テクニシャンはユーゴスラビアから生まれる、それがサッカー界の定説と言ってもいいほどだ。
多民族国家が一つになれるスポーツとして旧ユーゴではサッカーが愛されてきた。バルカン半島系の血気盛んな気質、そして同時に華麗なセンスが様々な名選手を育ててきた。
旧ユーゴスラビアと言えば同時に東側諸国の中で独特な地位を確立してきた国でもある。
米ソ冷戦のはざまにおいて第三世界の新しい道を模索した国だ。基本的には社会主義陣営であったが決してソ連に取り込まれることなく時には勇気をもってソ連と距離を置いた。その多民族を指揮し独特な地位を気づいて来たのがまさにチトーという指導者であり、小国でありながらも大国に迎合することなく独自の路線を貫いてきた伝統がある。
しかしカリスマのチトー亡きあとは悲しいことにユーゴスラビアは分離と崩壊への道をたどることになる。
モドリッチもその紛争と無縁ではなく空爆の爆撃音がなるピッチで必死にサッカーの練習に打ち込んだという。社会主義国だから娯楽の数も限られている。サッカーボールこそが何よりの、そして唯一のおもちゃだった。子供のころから最大の友としてボールと戯れてきたことでそのセンスは培われたのだろう。
少年ルカはサッカーボールを熱心に追い続けそのプレースタイルを磨き上げ、ボスニアリーグ、クロアチアリーグなどで頭角を現しイングランドのトッテナム、そして最終的に白い巨人スペインのレアル・マドリードにまで上り詰めた。
現在ではもはや世界最高のセントラルミッドフィルダーと言っても過言ではない存在だ。
パス、ドリブル、守備、全てにおいて一級品でチームのために全力を尽くす。どんな時でも手を抜かず一生懸命サッカーをする姿はどこか安全にサッカーをできることの幸せを噛みしめているように見える。
紛争を経験しているからこそ心の底からサッカーができる楽しみを噛みしめて、そして何よりサッカーを楽しんでいる。
彼のプレースタイルを見るとまさにサッカーを楽しんでいるという事が伝わってくる。ファンタジーあふれるプレーにはまさに空爆の中でもサッカーボールをおもちゃとして追いかけ続けた少年の心が流れているのではないだろうか。
アウトサイドでボールを蹴ることはテクニシャンの特徴の一つだと言われている。
右足アウトサイドにかけてロングボールを蹴るプレーはまさにモドリッチの代名詞であろう。ピッチの右サイド方面にいるところから右のアウトサイドで左サイドや中央のスペースにボールを出すプレーは何度も試合中に見ることができる。
通常その姿勢であるならば左足を使った方が良い場面でも彼は拘って右足を使う。そこはまさにテクニシャンとしてのこだわりであろう。
通常左利きの選手は左足に拘って明らかに左足を使っているという姿勢が伝わってくることが多い。
しかし右利きの選手はレフティの選手に比べれば両足を得意とする選手が多くあまりこの選手は右利きだなという印象がないことが多い。
しかしモドリッチはそういう見慣れた右利き選手でありながら右利きだなということが特徴的に伝わってくる選手の1人だ。あまりサッカーを見てこの選手は右利きだなという印象を感じないことが多いが、ことモドリッチにおいてはなぜかその印象を感じるのだ。主観なのかもしれいながモドリッチを見ているとそういうテクニシャンとしてのこだわりを感じることがある。
試合中常に中盤を支配しゲームを操る、世界最高のフォワードを活躍させ自分も華やかな見せ場を作る。まさに旧ユーゴスラビアらしい華やかな司令塔なのがルカ・モドリッチだ。
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サッカー評論家にはなぜポエマーが多いのか
よく他のスポーツファンがサッカー関連の記事を読んだ時にポエムじみていると批判することがある。サッカーライターのやっていることはただのポエム書きではないかと。
有名どころでは金子達治や小宮良之、杉山茂樹などがあげられる。中身がないことをひたすらポエム調に書きあげて自分に心酔したような記事を描くのがサッカー評論家の特徴だ。
実際サッカー関連の記事は偽インタビューやねつ造インタビュー、ポエム調の雰囲気記事が多く日本サッカーにおけるジャーナリズムはサッカー先進国に比べてまだ未発達の段階だと言わざるを得ない。
偽インタビューは週刊現代がワールドカップ前に明らかにねつ造したものもあれば、巧妙に本当のインタビューであるかのように偽ったようなものまであり最近でもそれらが問題になった。
しかし同時に思うのである、サッカーとはただ明確な指標だけでは語れないと。
さまざまな抽象的な意見や曖昧性があるからサッカーは面白い。それらが時にポエムとなっても自分はその面白さを感じることができるしむしろサッカーは時に文学なのではないかと。フットボールは文学であり詩でありエンターテイメントでありスポーツである。
ボールを蹴る、そのシンプルな動きがここまで高度に発展した時もはやその概念は文学の領域に達する。明確な分析が無意味に思えるくらい時としてサッカーは美しい。そのように語るのもまたこのスポーツにおける文化であり、むしろそういった文化が発展していくべきなのではないかとさえ思う。
ポエムは面白いのだ。
実際金子達治や小宮良之、杉山茂樹に関しても批判されがちだが個人的には結構好意的に見ていてその文章を読むのが楽しみだったりする。自分自身がそのような文章を書きがちだからなのかどこか共感する部分も多くむしろ彼らのようになりたいとさえ思うのだ。
そして評論家やライターに限らず、サッカー選手自身も発言やインタビューが面白いプレイヤーは見ていて楽しい。
本田圭佑のビッグマウス発言や中田英寿の持論や哲学、モウリーニョの攻撃的な皮肉めいた言葉、そしてシャビ・エルナンデスのアンチフットボール発言など記者会見やインタビューにもフットボールの文化が存在する。
少なくともセルジオ越後や武田修宏に比べて面白みがある。
ただ批判だけのつまらないセルジオや武田に比べてどこかユーモアやセンスがあるのがポエム系サッカーライターの特徴だ。
真面目にサッカー評論として受け止めてしまうとそれらは良くないが「サッカー文学」として受け止めると非常に読みごたえがある。評論風文学ともいえるかもしれない。サッカーの評論をしているようで実際にやっていることは文学やポエムである。
しかし何度も言うようにサッカーというのは必ずしも明確に語れるものではなく時としてポエムや文学のジャンルに入らなければ書き表せないこともあるのだ。
それほどにこのスポーツは奥が深い。
人類が勝利や美を追求する世界がこの11人対11人の1つのボールをめぐる争いには存在する。それゆえにそこにはエンターテイメントの極致が存在し人々は感動する。
球技を超えた存在の大きさがサッカーにはあるのだ。
そのあまりに奥深い世界を文章化しようとしたときもはや明確な分析に意味はあるのだろうか、そしてそれは現実に可能なのだろうか。
ポエムにしなければ書き表せないのならばそれはサッカーライターとして実力がないという批判はまっとうだがすべてが明確な分析だけになってしまえばきっとこのスポーツはそのエンターテイメント性を失いつまらない物に成り下がってしまうであろう。
文学的批評さえも内包する広さがあるからサッカーは面白いのだ。
それゆえに自分はポエム評論やポエマー評論家の存在に肯定的である。
もちろんそれらだけの評論であってはならないし高度なジャーナリズムや分析も日本のサッカー批評において求められるが、どうじにそのことばかり追求してもいけないのだ。
サッカーはエンターテイメントである。
我々サッカーファンはその基本も基本に立ち直って考えなければならないのではないだろうか。
FCバルセロナとかいう自分たちのサッカー教団
FCバルセロナといえば世界のサッカークラブの中でトップ3に入ることは確実と言ってもいいほど強大な力を持ったクラブであり、日本でもその人気は高い。楽天がスポンサーになったことも含めて日本で更に有名になっていくに違いない。
そのバルセロナの最大の特徴と言えば「美しいサッカー」や「魅せるサッカー」だ。
サッカーが好きな者ならばそのスタイルに感動しないはずがないと言っても過言ではない程、華麗な個人技や華麗な連携、チームワークを得意としエンターテイメント性にとんだサッカーをしている。
その起源は伝説的オランダのサッカー選手ヨハン・クライフが選手時代と監督時代の両方において持ち込んだエッセンスでありその哲学を基に今日まで発達してきた。
「バルサのフィロソフィー」はカンテラと呼ばれる育成組織を主体に伝統として今日まで受け継がれている。
スペイン中央政権に反抗するカタルーニャの象徴としてのFCバルセロナは決して「マドリーのようにただ勝つだけのサッカーであってはならない、アイデンテイティや哲学がそこにはなければならない、中央政府の優遇を受けた白いクラブとは違うんだ」という自負がある。そのためにバルセロニスタはそこにエンターテイメント性を重視し美しさを要求する。
バルセロナの美しいスタイルにはそのような伝統や時代背景がある。長い歴史がそのアイデンティティを形成してきた。
カタルーニャ民族の象徴としてクラブ以上の存在であることが求められている。
そのためしばしば自分たちバルセロナの美しく華麗なサッカーに対して強い自負を持ちすぎるあまり他のクラブを批判する発言をする選手やクラブ関係者、サポーターも存在する。
「アンチフットボール」と言って他のクラブのスタイルやカウンターサッカーのようなスタイルを揶揄することはバルセロナの選手やバルセロナのサポーターに共通する。そして勝てなかったときは「我々が無いようでは勝っていた」「相手チームは美しくなかった」と批判する光景がしばしばみられる。
まさにこの光景は自分たちのサッカーができれば勝っていたという発言にそっくりだ。いやむしろその上位互換や強化版の存在がバルセロナかもしれない。しかしバルセロナのその言葉は決して嘘ではない。バルセロナはその自分たちのサッカーが機能したときに関しては間違いなく最強であり異次元のゴールラッシュを生み出す。機能したときに関しては紛れもなく最強なのだ。アンチフットボールを華麗なサッカーでいなすのがバルサのスタイルである。
FCバルセロナの人材獲得術と育成メソッドのすべて チャビのクローンを生み出すことは可能なのか
しかし時としてそのサッカーの歯車がうまく噛み合わない時があるのも事実だ。常に一緒に練習して世界最高の選手が集まっているテクニシャンぞろいのバルセロナでさえも時としてそのサッカーがうまくかみ合わない時がある。その時にまさに「自分たちのサッカーができていれば・・・」となるのだ。
まさにこのクラブは教団であり宗教だ。
その信念や哲学が強すぎるあまりサポーターも信仰心に近いようなものを持っているしバルサが絶対だと信じてやまない。
そして自分自身もまたその哲学の共感する人間の1人だ。
実はここまで自分がバルセロナが好きな理由はそういったクラブ体質によるのだ。バルサが普通のクラブと違って独特で面白いのはそういった強固な信念に支えられているからだと言える。
バルセロナの選手たちが織り成すシナジー効果が発揮されたときのプレースタイルは紛れもなく最高のエンターテイメントであり非常に美しい。しかしそれだけでなくその文化や体質、伝統、風土にも面白さが存在する。
サッカーという競技は何もただ球技をするだけではなく様々な物事が背景に絡んで来る。
本場カタルーニャだけでなく、世界、そして日本のバルセロナファンの気質も含めて自分には居心地がよく感じる。
よく日本人なのに海外サッカーを応援することが疑問視されるが、自分の地元にはJ1のクラブがなく県外も海外もよそ様に変わりがないのであれば海の向こうのクラブを応援することも楽しいのではないかと考えている。
もちろん地元のチームの動向を気にしつつ、好きな海外のチームも楽しむ、そういう多様性があるのもサッカーの魅力だ。
そしてもはやバルセロナは日本においても独自の文化を作りつつあり、実際のクラブ関係者の言動などを強く受けている。そのため海外サッカーファンの中でも特異な雰囲気を持っている。
そういった伝統や哲学、クラブ関係者の独特な体質があるからバルサは魅力出来なのではないだろうか。
世界に燦然と輝くブラウグラナのチームにはそういった他にはない独特な伝統や気質が存在する。いわばカタルーニャ魂の象徴のようなものがこのクラブにはあるのだ。
時としてそれは一切その地に縁のない人々をも魅了する。
バルサの華麗なサッカーは1日にして成り立つものではない。
様々な人々の意志や哲学が継承され、中央政府のレアル・マドリードに対抗しようとしてきた反骨心がその魅力の根源なのだ。
最近のグアルディオラがマジで無能だという風潮
グアルディオラ、理想家であり理論家であり哲学者。
バルセロナのBチームを指揮した後、トップチームの監督に就任し大胆な方針によりバルセロナを復活させた名将だ。ロナウジーニョ、デコ、エトーなどそれまでの主力を移籍させイニエスタ、シャビ、ブスケツらカンテラ出身選手を中心としたチーム作りに方針転換。
そして極端なポゼッションサッカーを志向し火星のチームにも勝てるとまで言われた伝説的チームを作り上げる。メッシ、シャビ、イニエスタの全盛期と重なったこのチームはチャンピオンズリーグも制覇し、サッカーの歴史上もっとも美しく、そして最も強いチームだと絶賛された。
またバイエルン・ミュンヘン時代もその革新的サッカーは旋風を巻き起こし、圧倒的な破壊力を持つ強力なチームを作り上げた。ビッグイヤーのタイトルには恵まれなかったがその最先端理論はやはりサッカー界で賞賛された。
そして今マンチェスター・シティの監督として辣腕を振るっている状況に至る。
しかしこのマンチェスター・シティでの指揮がここ最近になってとある疑惑を再燃させている。
「もしかしてグアルディオラって有能な選手に囲まれてただけの無能なんじゃね?」
バルセロナ時代も結局はメッシ、イニエスタ、シャビが全盛期だっただけでありバイエルンでも誰でも制覇できるバイエルンリーグで無双していただけという風潮だ。
実際今のプレミアリーグでもコンテ率いるチェルシーの大きく引き離されており一時は勝利から見放された時期が続いてEL行きまでささやかれていた。更にチャンピオンズリーグでもまさかのASモナコに敗戦し姿を消すこととなった。
これでは無能説が浮上しても仕方がない。まだ1シーズン目なのでここで判断するのは早計だが「まだ1シーズン目、2シーズン目」と言っているうちに結局UCLで優勝できず退任したバイエルン時代の再現がプレミアリーグで起きてしまう可能性はある。UCLどことろかプレミアリーグですら優勝できずに任期満了という結果は容易く想定できる。
まさか本当にただの有能選手に囲まれているときしか結果を出せない無能なのか?
グアルディオラの信奉者としては信じたくないが「美しいサッカーでなおかつ最強を極める」という幻想はもしかしたら崩れるかもしれない。美しさと強さを一挙両得しクライフのサッカーをより現代化させた名将という評価はこのプレミアリーグでの挑戦をきっかけに崩れ去るかもしれない。
「ペップはあまりにも高度なことをやろうとしすぎている。下手にはできないだけ」という擁護もあるがでは歴史上最高の選手、すなわちリオネル・メッシにしかできないサッカー理論などもはやサッカー理論として破綻している。
そもそもその擁護論を思いついたのは自分である。
ペップがあまりにも理想家過ぎてとてつもなく高度なことを考えていることは間違いない、しかしその水準にある選手がほんの一部に過ぎないのも現実。「最高のシェフには最高の素材を用意しなければならない」というタイプのこだわりの強い監督がグアルディオラだ。あるものの中で最大限の結果を出すというよりも、自分のやりたいことやこだわりを完全に実現させたがるタイプ、夢や理想、そして美学の実現を求めるタイプの監督なのがペップ・グアルディオラであり現実にその幻の素材は足りない。
カンテラで教育を受けた歴史上最高の天才たちが奇跡的にそろったあまりにも甘美な期間がまさにペップバルサ黄金期だった。
リオネル・メッシというサッカー史上最高の神、アンドレス・イニエスタという宇宙人、シャビ・エルナンデスというペップの理論を完全に把握できる数学者
彼らとともに作り上げるサッカーはまさにスペクタクルであり見る者を魅了する美しいサッカーだった。
しかしバイエルン・ミュンヘンにメッシはいなかった。他のポジションの選手ならばワールドクラスの選手がそろっていたり、アリエン・ロッベンは「選手としてもう一段階成長できた」と語るほどグアルディオラの手腕を賞賛しているが最後のピースとしてのメッシは欠けていた。その結果強豪相手との試合でそのブロックや密集陣形を崩せずに敗退に追い込まれたというのがバイエルン時代の毎シーズンの光景だった。
結局最後のところで歴史上最高のドリブラーメッシのスキルがなければ密集を打開できなかった。中盤でのポゼッションは間違いなく最高峰だったが本当に危険な強固に固められた場所を崩すほどのシステムではなかった。
そして当然ながらマンチェスターシティにもメッシはいない。そもそも今後メッシのような選手を指揮する機会はもうないだろう。本人はありえないと断言しているが仮にバルセロナに戻ったとしても全盛期のメッシではない。そして世界中どこにいってもメッシはいない。
幻の食材はもう二度と手に入らないことにこのシェフは気づくことができるだろうか。おそらくはクリスティアーノ・ロナウドですらグアルディオラの美学には反する選手であるだろうし、もしかしたら使いこなせない可能性もある。ロナウドの長所を最大限に引き出すにはペップの美学や哲学を捨てなければならない。
グアルディオラのサッカーは選手を選ぶサッカーでもある。
仮にこのマンチェスターシティでの停滞にブレイクスルーをもたらす選手がいるとするならばそれは来季の補強にかかっているだろう。仰天プランでセルヒオ・ブスケツを呼び寄せる、もしくはシャビ・エルナンデスをアシスタントコーチとして招聘するなども実現すれば面白い。カンテラのエッセンスをより効率よくシティにもたらせる。
ただ現実味があるのはスターリング、ジェズズ、サネあたりの前線のポジションに「やっぱもっとすげぇ選手ほしい」と言って超ワールドクラスの選手を獲得する可能性。有力な若手選手であることは間違いないが、これまでのクラブと比べると格落ち感は否めない。ジェズズはシティの未来なのでその代りにクンさんが放出される可能性は高い。
ところでノリートは一体どこに消えてしまったというのか。個人的にスペイン出身のノリートはかなり期待していたしリーガエスパニョーラ時代も凄かったからグアルディオラに重用されると予想していた。しかしまるで話を聞かず放出候補にまでされていると聞く。バルセロナやレアル・マドリードにゴラッソを決める選手がなぜ軽んじられているか理解できないし悲しい事態だ。
更にサバレタ、サニャ、クリシーなども放出候補になっているらしく抜本的改革もあり得る事態になっている。この夏もっとも移籍市場をかき乱すのはこのマンチェスターのクラブになるかもしれない。
そして願うのであれば、グアルディオラにはベンゲルになってほしくないという事。15年近く前の過去の栄光にしがみつきそれから一切タイトルに恵まれず居座り続けたベンゲル化してしまう可能性も否定できない。
もしかしたら2010-2011シーズンのバルセロナでのチャンピオンズリーグ制覇が最後の栄光になるのではないか、そういう危惧がある。リーグタイトルもシティでは恵まれないのではないか。そもそもコンテが有能すぎた。本来ならばペップがその地位にいるはずだったがペップファンとしては悔しい結果になっている。とにかく某ベンゲルさんになってほしくはない。ボス(笑)のようにペップ(笑)となってしまうのか。
ベンゲルも美しいサッカーだのスペクタクルなサッカーだの言いながら結局タイトルに恵まれずあまりにも長い日々を過ごしてしまった。
気付けば10年前のあのバルセロナでのCL優勝が最後という事になりかねない。それどころかリーグ制覇すら危ういのが現状だ。このまま本当に無能監督コースに突入してしまうのか。ベンゲルも当時は最高の名将のように扱われていたが今の扱いは散々でありネタ監督だ。
スペインやドイツでは1つの目標に集中できた。国内リーグではすべて本気を出さなくてよいしライバル争いもそれほど厳しくない。
しかしプレミアリーグではライバル競争は熾烈で下位クラブも本気で来る。二兎追うということがこのリーグでは強いられる。二兎追う事に慣れていないグアルディオラはこのクラブで非常に苦戦するだろう。
その苦戦の先に栄光はあるのか、それとも無能という汚名があるのか。どうなるか様子を見てみよう。