elken’s blog

ジャニーズとサッカーを中心にあらゆることを評論するブログ

僕の考えた最強のオリジナルガンダム5機

オリジナルガンダムというのはガンダムファンならば一度誰しもが妄想するものである。こんなガンダムがあったらかっこいい、こんなガンダムは最強だと妄想をする。それはオリジナルガンダムオリガンと呼ばれる。

授業中のノートの落書きとかに自分の考えたオリジナルのモビルスーツを書いた事がある人も多いはずだ。その痛い妄想はしばしばぼくのかんがえたさいきょうのがんだむと揶揄される。小学生が「僕の考えた最強のなんちゃら」とよくいうけどはっきりいって滅茶苦茶で後から振り返るとすごく恥ずかしいのが多いことも事実。

 

しかし自分はその妄想が素晴らしいと思っている。人間というのは大人になるにつれて常識を身に着けていく、常識の範囲内で行動するようになり人の目を気にする。そんな時に小中学生時代に滅茶苦茶なことを考えていたなと懐かしく感じることがある。厨二病時代にノスタルジーを感じるのだ。

今あれほどの妄想をするイマジネーションやクリエイティビティがなくなってきたことに一抹の寂しさを感じる。あの発想力や情熱と元気はどこに消えてしまったのか、時折そう思うことがある。

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そういう意味で自分は今あえて「僕の考えた最強のガンダムというのを作ってみたいと考えた。子供の頃の憧れをもう一度本気でやってみたいと思って今一度オリジナルガンダムの製作を始めた。

その結果誕生したのが戦略機動伝ガンダムKindというオリガンである。思う存分自分の厨二病の発想を取り込んで好きなことをやる、自分の理想とするガンダム作品はこういうものだというのを詰め込む。ガンダムの新作は必ずしも自分の理想通りの作品ではないことが多いしガノタもそういう不満を常日頃言っている。そういう時にじゃあ自分で作れば自分の理想通りの物が作れるのではないかガンダムKindを考え始めた。ガンダムに熱狂していたあの頃の情熱を取り戻すために自分でやってみたいと考えた。

 

そういう意味で自分の理想はガンダムW,ガンダムSEEDガンダム00のような複数のガンダムが存在してそれらをイケメンキャラ達が操作するという世界観だった。それらの作品はまさに厨二病全開で自分の理想はいわば厨二病ガンダムだった。AGE以降そういう作品がないのでこれはも自分で作るしかないと考えるようになった。

まずタイトルは普通に機動戦士でもよかったけどちょっと捻ったことをやりたいと思って戦略機動伝というタイトルにした。ここら辺はGガンの機動武闘伝やウィングの新機動戦記からインスピレーションを得た。せっかくのオリガンなので普通に機動戦士にするよりは独自のタイトルがいいのではないかと言う意味で戦略機動伝と名付けることにした。

世界観としてはダブルオーっぽく地球の西暦を採用し極めて現実国家の延長戦に近い三大陣営のような設定にしている。米欧主体の超大国連合が最強勢力であり悪役。NATO軍という呼称をそのまま使用し作中でもZAFT軍のようにNATO軍という言い方にしたいと思っててここら辺はSEEDの影響。次に協力機構という存在があり、これは上海協力機構SCOの発展版であり中露が主体となる。最後に中立同盟、これは日本や欧州の一部、アジアの一部などによる広範囲の同盟。いわば第三勢力のような存在で主人公もここに属する。基本的に中立同盟が主人公勢力となり中立同盟視線で話が進められていく設定になっている。

 

そして肝心のオリジナルガンダムだが5機の機体が登場する。

ヴェリタス、ダクティル、アポフィス、クルースン、ファエトンという惑星の名前から取っているのでここは厨二病全開である。しかしながらこの5機のガンダム5機すべてが共闘するわけではなくいわばSEEDのように4対1という構図になっている。4機は基本超大国連合所属の悪役として登場し1機は主人公が搭乗するという設定だ。

 

NXMS-33Vヴェリタス

イラストの通り緑の機体カラーをしており近接戦闘を得意とする。敏捷性に優れており刀剣での攻撃を主眼に開発された機体であり主人公が搭乗する。今までのガンダムではトリコロールや青が主体の機体が主人公だったのであえて脇役にされがちな緑色の機体を主人公にしたいと考えた。逆に後述のダクティルという青主体の機体はライバル機体として登場する。ここは白い機体があえてライバルとして登場し主人公の機体が黒であるコードギアスを参考にした部分もある。厨二病というのは基本的にオーソドックスなことをやりたがらないので自分もちょっと捻ってみようと考えた。

ちなみにSEEDでは4機が強奪されたことから始まるが、逆にガンダムKindでは中立同盟側がこの1機の強奪に成功したことから物語が進んでいく。戦力では不利な同盟側にガンダムという機体が手に入ったことでさあどうなっていくかというストーリー。

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搭乗者は城ヶ崎建嶺(じょうがさきけんれい)というオリジナルキャラクター。

ここら辺も厨二病な設定で行こうと思っていて痛々しいぐらいの設定にしたいと思った。よくラノベとかでとんでも設定のキャラがいるけどそういう感じのオリキャラにしたいなと思って5人全員厨キャラにした。自称厨二病の専門家としてそこは譲れない物があった。

建嶺の特徴

・ポエム的なセリフが多い。浪漫とかナルシスト的な世界観にひたりがち。負けた戦いとかを美化したりとか今の自分が置かれている状況をかっこつけて解釈する性格

・才能は間違いなくなる。才能があるけども精神的な弱さがありそれを発揮できない。そのキャラがどう成長していくかというのがまさにガンダムらしいストーリー。

・剣術を得意とする。幼いころから剣術をやってきた経験がありまさにガンダムヴェリタスという機体にはうってつけのパイロット。

・落ちこぼれからエリートになる。日本国防軍のアカデミー時代は最初落ちこぼれだったが後に成長していく。

・逃げ癖がある。ガンダム主人公にありがちなうじうじした性格の持ち主。せっかく国防軍でエースにまで上り詰めたがとある失敗をきっかけに実戦から遠のき軍を脱走する。ここまでが1話の話までにあった前提ストーリー。

 

NXMS-21Dダクティル

このモビルスーツは飛行形態への変形機構を兼ね備える空中機動戦の特化された機体。空中での高速機動戦闘を得意としており高速戦闘による制空権の確保を主眼い開発された。その変形機構の扱いは非常に難しく高い対G耐性と空間認識能力がなければ操縦は不可能。

機体カラーは青主体であり主人公機体のような色彩をしているが実はライバル機体であり悪役的な描写も多い。個人的にキラ・ヤマトのフリーダムやストライクに対して懐疑的な目線を持っていて逆にキラ悪役なんじゃないかという感情があった。それゆえにあえてキラやフリーダムっぽい機体を悪役にしてみたら面白いんじゃないかなと考えた。ガンダムと言えば機体の後継機も見どころだけどもこのダクティルも現状の案としてはよりフリーダムっぽいデザインに進化するという設定になっている。

そもそもこれらのデザインは現状における案であり今後自分もまたイラストを描いていく過程でデザインや設定を変更するという事もある。まだ未完成な構想段階であり決まってない事もかなり多いのが現実。

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搭乗者は空良快晴(そらかいせい)というオリキャラ

この作中では主にライバルキャラとして登場し城ヶ崎建嶺と昔は親友だったというベタな設定がある。戦場でかつての友達と再会するって個人的に凄く好きでそういうシーンを取り入れられないかなと思った。昔は仲が良かったけど戦争がそれを引き裂く展開に自分は惹かれる。

快晴自信は人生を挫折し行き詰っていたところにNATO軍入隊という活路を見出し社会への復讐のためにモビルスーツパイロットとなる。富と栄誉、そして勝利を求め自分の人生を変えるために軍人へとなる。

これも設定としてNATO軍は勝利給というものがあり活躍すればお金が手に入るので世界中から雇われ軍人が集まる。人生に行き詰った人間が一発逆転を求め集まるのいわば職業軍人のような立場として空良快晴は戦っている。普通に生活していては絶対手に入らない金額が手に入り戦争に勝った物だけが味わえる特別な栄誉もある、そういう環境に浸ってしまったせいで変わってしまった快晴と彼に対峙する建嶺という関係性がこの物語の根幹になっている。

彼の基本的な理念や哲学にあるものは勝利至上主義、勝った物が偉いというシビアな現実の価値観である。そういう意味で美学や意味を追い求める建嶺とはライバル関係にありしばしば戦場で衝突していきヴェリタスとダクティルはぶつかりあう。その戦いの先にある物は何なのか、そこを描きたいなと自分は考えている。

 

NXMS-90Aアポフィス

ガンダムアポフィスはトリッキーな戦術を得意とする機体であり肩に装備された巨大な鋏型の武装は4つの腕のような機能を果たす。モビルスーツデザインとしてはゲテモノ機体をイメージしており最強に中二な機体を作ろうとデザインした。主人公サイドや正義の機体にする意図はなく完全に悪役中の悪役で外道や畜生な戦い方を得意とする。

00でキュリオスが敵兵士を惨殺したシーンがあったがそれぐらいエグい戦い方を描ければ面白いんじゃないかなと思っていて悪役中の悪役をイメージしている。イザークが民間人の乗ったシャトルを撃ち落としたことがあったがそういうシーンも描けないかというぐらいに畜生キャラにしたいと思っている。ゲテモノ機体として徹底的にトガった悪役キャラにして衝撃を与えるような展開にするぐらいのイメージを持ってる。

機体のモチーフはサソリのような生物であり相手をエグく仕留める究極のハンターのようなガンダムにしたい。紫というカラーリングも含めて独特な機体にすることが理想。

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搭乗者は軌流洵作(きりゅうじゅんさく)

仲間からはキリジュンと呼ばれている。彼もまた快晴同様に人生に行き詰まり社会に憎しみを抱いている。快晴に誘われる形でNATO軍へ入隊し外道へと目覚めていく。作中でも屈指の畜生行為を行い自分としてもいいキャラとして描くつもりがないくらいに外道キャラにしたいと思ってる。

空良快晴が疑問を投げかけるような作戦や行動にも乗り気であり仲間が引くほどの行動をする傾向がある。しかしながら彼にもやはりこの性格に至るまでの過去があり実は昔は優しい人間だった。そういう彼の人生も含めて物語にしていけないかなと考えている。

 

NXMS-46Pファエトン

火力重視の武装を複数兼ね備えた重量級の機体がガンダムファエトンでありいわば重モビルスーツのような存在。ビームガトリングと銃火力ビーム砲を肩に兼ね備えフレキシブルに作動する。更に両手にもさまざまな重火器系の武装が装備されておりグフカスタムのようなガトリングシールド型の武装も兼ね備えている。また脚部にもミサイルポッドなどを装備することが可能でありヘビーアームズのような機体としてイメージしてデザインした機体。主に戦闘では高速機動戦闘を仕掛けるアポフィスやダクティルを後方から支援しダクティルの巡航形態の時に乗ることで機動力を確保することもできる。これはSEEDでカラミティがレイダーに乗っていたことにインスピレーションを得ている。

とにかく全身が重火器のような機体であり後方支援に特化された破壊的な機体がファエトンである。徹底的な破壊活動を得意としておりファエトンが通った後には何も残らないと言われるほどの破壊力を秘めている。

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パイロットは坂之上高行(さかのうえたかゆき)

洵作とも親友であり彼もまたやはり快晴に誘われ軍に入隊する。元々は善良な少年であったが洵作につられどんどんと畜生化していき作中でも極悪非道な行為が多い。戦争によって富と破壊の快楽に目覚めてしまった青年であり、その変わりようには建嶺も驚愕する。

 

NXMS-52Cクルースン

スナイパー型の機体であり精密射撃や長距離射撃を得意とする。狙撃機体でありながらカラーリングはピンクであり基本的な狙撃の理念に大きく反する。スナイパーとは目立たないことが重要な戦術の一つだからである。この機体自信も元々製造されたときはより地味なカラーリングであったがパイロットとなった花鏡時久の要望によりこのような機体色やデザインへと改造が施された。1枚目のイラスト自体は後継機の方であり2枚目が最初の機体である。薔薇をイメージした機体になっておりそのイメージ通り華麗な戦いを花鏡時久は好む。戦場にも美しい戦いを求めており快晴、洵作、高行とは嗜好が異なるキャラクターだ。そのため建嶺とは意外と気が合い認めている部分もある。

後継機ではファンネルを装備し薔薇をイメージしたローズウィップやレイピアのような近接武装も装備する。「綺麗な薔薇にはとげがある」という某キャラクターをイメージしており華麗な戦闘を得意とする。戦場に置いては司令塔のような活躍を果たし味方の機体を上手くコントロールし指示を与え戦闘自体をオーガナイズする役割も果たす後方支援型の機体。

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パイロットは花鏡時久(かきょうときひさ)

上記のように美や哲学を愛してやまない存在であり耽美的なキャラクターかつナルシストでもある。美しさを重視しており戦いにおいても美しい勝利を求める。そのためしばしば同僚の3人と意見が食い違うことがある。元々はNATO軍のフランス外人部隊に所属しておりそこから所属が変更され作中で3人と再会する。

モビルスーツパイロットとしての才能は一流でありモビルスーツ戦における先を読む能力や味方への支援能力、そして射撃の制度は一級品でありNATO軍上層部も彼の才能を高く評価している。しかし時久独自の哲学や信念があり時として扱いにくい存在だと見なされることもある。いわば天才タイプ、アーティストタイプの性格であり自分の意に反することには抵抗することもある存在。何よりも美しさを重視する姿勢は3人と決定的に異なる部分である。

私生活の部分では薔薇を栽培していたり石鹸を自分で作ったり香水やインテリアへの興味を抱いているため女子力が非常に高い。女装趣味があるという噂があったり中学の卒業文集にポエムを載せていたことが発覚したり非常に奇妙な言動が目立つキャラでもある。才能や能力があると同時に美意識が高いあまり理解できない行動もおこしその信念は理解しがたい部分もある。その性格はまさにクルースンをピンク色の変更したことに表れており作中でもこのような行動を次々に起こしていく。

 

基本的にガンダムKindはこの5人の話というのはこの5人とこの5機のガンダムを主体に物語が進んでいく。現在はまだ構想中の部分が多いがいずれはしっかりと完成させていきたいなと思っている。また他にもさまざまなキャラクターが登場し物語は進んでいく。自分自身でもこの話がどうなっていくか予想がついていないし構想や設定というのはまだ考える余地が多くキャラクター設定やモビルスーツデザインもこれから更に変更を加えていきたいと考えている段階。前述のようにとにかく厨二病に振り切って自分の理想的な作品を作ることが目的であり更に新しい要素を追加したりして考えていきたいなと思う。

そしてその目的は自分の作品を作り上げる事だけでなく世の中でもっと個人創作が流行ってほしいなという事でもある。オリガンを考える人はいるけども実際に行動に移す人はあまりいない。そういったオリジナルガンダムを構想している人がどんどんこうやって個人創作を投稿してくれれば絶対面白くなるんじゃないかなと思ってる。それでネットの創作コンテンツが充実してくれるのが一番の楽しみ。それでガンダムや創作文化が盛り上がることが一番の目的だしもし自分のやってることが誰かのヒントになったり「こんな感じで製作して投稿していいんだな」と思って一人でも新しく創作をやってくれる人が増えたらそれが一番素晴らしいことだなと切に思う。

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日本ではもっとストリートサッカーが根付くべきではないか

よく南米のサッカー選手はストリートサッカーから生まれると言われている。南米に限らずオランダはストリートサッカー文化が盛んでクライフやファン・ペルシーはストリートで才能を磨き上げた。

ストリートサッカー出身者のボールタッチは独特で整備されていない場所でボールを扱う事によって培った発想力と技術が垣間見える。

 

しかしストリートサッカー文化は失われつつあるのも現状だ。サッカーの塾化が進んでおりサッカーはコーチに習う物になってきている。ブラジルでさえ最近はストリートサッカー文化がなくなり育成をするものになってきている現状があり現代サッカーのトレンドであるのは事実だ。現代の環境でストリートサッカーは難しくなってきている。

 

その一方でやはり画一的な練習方法からは抜きんでた選手が育たず世界トップレベルの選手には依然としてストリートサッカー出身者が多い。イブラヒモビッチのプレースタイルには移民街のストリートの血が流れているロナウドマデイラ島の街中でボールを蹴っていた。

日本では部活かユースという問題があるが今欧州や南米ではストリートか育成組織かという似たような問題が議論されている。

かつてヨハン・クライフは我々の時代はストリートでサッカーをしていたので足腰が鍛えられて頑丈だったという趣旨のことを語っていた。それは古い意見であるかもしれないが同時にやはりその文化を再評価する向きもやはりある。

サッカーが単に習い事になればそこからエンターテイメントの要素が失われるという危惧がクライフにはあったのかもしれない。サッカーを習うのではなく、サッカーで遊ぶ環境ができれば、システム化された現体制では育ちにくい独特の感性を持った選手が生まれる効果も期待できる。

しかし日本において言えばそもそも失われるようなストリートサッカー文化そのものが最初から存在していないのだ。そして今から始めようにも公園は球技禁止の場所が目立ちセキリュティの問題から学校の校庭は解放されない。

この問題は日本の深刻な問題になっている。子供の公園離れ、いや公園の子供離れが進んでいる。公園が子供にとってフレンドリーな場所ではなくなってきているのだ。かといって土地が余っているような地域では子供の数そのものが少ない。

ストリートサッカー文化が芽生える土壌はかなり貧困だと言わざるを得ない。そして子供たちがサッカーをするとなれば高い月謝代を払う場所しかなくなっている。家系の問題から少年サッカーをやめさせたいと考える家庭まで出てきている。

サッカーは習い事として人気の為月謝代を強気にスクール側が取れるという事も問題の背景にある、そしてストリートでサッカーをする場所や相手も存在しない。

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今日本のサッカーは高級品化しつつある。人種や階級、国籍を問わずにできるスポーツであるサッカーだが今その自由さはサッカーから失われつつあるのかもしれない。サッカーが特定の階級にしかできないものであればこの競技からはエンターテイメントが失われるだろう。名もなき場所から世界的なスターが現れるのがサッカーの良さである。

しかしながら今は整備された環境で家計に余裕のある家庭の子供しかできない高級品になりつつある。隣国中国でも子供たちはスポーツができないと言われている。一部のエリート層だけがするものであり、子供たちは勉強だけをさせられる。

日本は中国程ではないがサッカーをするとなれば学校やサッカースクールといった習い事に限られてくる。

 

現在12歳未満のサッカー人口が2014年から減少に転じたというデータもある。今の日本はサッカー人口が増えてるという事を手放しでは喜べないのだ。ザックジャパン全盛期の頃は確かにサッカー人気が全盛期だったこともその要因としてある。イナズマイレブンというアニメが流行り、香川真司マンチェスター・ユナイテッドに所属していた時代で日本代表も強かったから子供たちにとってサッカーが今以上に憧れだった。今はワールドカップで負けておりサッカーアニメもあまりやってないのでサッカーに憧れる環境がなくなってきている。

その結果子供の夢はスポーツ選手からユーチューバーになってきているのだ。手放しで今の日本の少年サッカーが充実していることを喜べない現実はある。

しかしこれを子供のスポーツ離れと考えてはいけないのだ。スポーツの子供離れと言ったほうが的確だ。子供にとって遊びではなくなり習い事になれば敷居の高い物として足が遠のく。

そもそも一口にストリートサッカーと言っても何もないただのストリートではない。サッカーが盛んな国ではサッカーコートが随所にある。小さな簡易なものも含めれば膨大な数になる。エデン・アザールメスト・エジルはそういう場所でひたすら練習し技術を磨いた。もちろんそういった場所は無料で使える。

しかし日本ではそういう場所はほとんどなくあったとしても有料で使用するものやサッカースクール用の整備されたものだ。もっと荒れた場所でもいいので簡易なゴールを設置したり網を張ってボールが外に飛ばない工夫をするなどして最低限の設備を整えて無料で開放するべきなのかもしれない。

そういった名もなき場所から育つ選手がいずれ世界のスターになる。名もなき場所も子供たちの発想次第ではカンプ・ノウオールドトラッフォードに生まれ変わる。しかしそういった名もなき場所そのものが少なくなっているのだ

 

とにかく現代の日本でサッカーは高級品や敷居の高いものになりかけている。

そんな日本の恵まれた環境で育った子より、アフリカでボロボロのボールを蹴っていた子のほうが将来世界的スターになるというのは皮肉だ。

 お金がなくてもできることがメリットであったはずなのにお金がなければできない高級品になりかけている。オシムは靴下を丸めたものをボール代わりにして、エトーはポリ袋に空気を入れてそれでリフティングしてた。

 

しかしこのサッカーの高級品化こそむしろチャンスかもしれない。恵まれた家庭の子供は月謝を高くとるサッカースクールに行けばいい。しかしそうでない子供は何とかして日本の環境でストリートサッカーができる環境を見つけ出す、周りもその場所を作ることに協力する。そう言って名もなき場所を作ってそこでサッカーの練習をすればストリートサッカーはきっと可能だ。

そして月謝代の高い恵まれたスクールでやっているに打ち勝つために懸命に練習する、貧困から這い上がりスターになるために。サッカーは恵まれた場所で育つ必要は必ずしもないのだ。整備された環境はむしろマイナスかもしれない。

今の日本は格差社会になってきてる。それがチャンス貧困を抜け出して成り上がるためにはサッカーをするしかない、そういう考えも必要な時期に来ているのかもしれない。日本人はサッカーを今まで欧州への憧れや綺麗な夢、あるいは漫画のようなファンタジーと考えすぎてきた。

 

例えば南米人選手がお金目的で中国スーパーリーグへ移籍することに批判も多い。しかし南米人選手があれほど凄い理由は金に執着があるからなのだ。美しい夢だけでは生きていけないし、きれいな憧れだけでは夢は叶わない。現実的に這い上がり富裕層になるための手段としてサッカーに取り組む必要性ももしかしたら出てきているのかもしれない。

この競技は神聖なものではない、もっと荒く貧困と結びついたスポーツなのだ。

今日本の子供の5人に1人が経済的ハンディキャップを抱えていると言われている。一億総中流だったころの日本では考えられない状況になっている。そういった状況はむしろチャンスなのかもしれない。

そういった家庭では指定の練習着やジャージ、そして月謝代や遠征代は払えないだろう。本田圭佑のやっているソル・ティーロも月謝代を安くしていてほとんど利益が出ていないボランティアに近い状態だが、それでも本当の貧困家庭では行かすことができないしソル・ティーロも全国どこにでもあるわけじゃない。

しかし日本の恵まれた整備された環境で育つ子供よりもアフリカでボロボロのボールをみんなで取り合って練習している子供の方が将来はスターになるのである。そう考えると日本で月謝代を払えずスクールに行けない子供の環境はむしろ有利に働くかもしれない。それこそ戦後初期に野球で成り上がったスターたちのように今の子供たちはなれるかもしれない。かつての野球選手が草野球から成り上がったように今の子供たちはストリートサッカーから成り上がることだってできる。日本人皆がある程度裕福だった時代が日本の歴史においても世界との比較においてもあまりにも特殊すぎた時期だった。

日本に新貧困層という新たな層が出現したことはもしかしたら日本サッカーに何か変化をもたらすかもしれない。しかし現状サッカーは習い事になってしまっている。今こそその発想を変えてストリートという場所に活路を見出す時期に来ているのではないだろうか。

スポーツにおいて成長期に食べることもトレーニング

スポーツというのは何も練習をするだけが大事ではない。

食べることも休むことも立派なトレーニングの一環でありこの基礎をおろそかにしていてはどれだけすぐれた練習をしても意味がないのだ。

その中でも特に日本ではまだ成長期に食べる事の重要性は認識されていない。

世界と戦うスポーツにおいて日本人選手のフィジカル不足は常に問題になりその部分が決定的な差になっていることも少なくはない。その問題を見て「結局日本人はフィジカルが弱い」「日本人の体は貧相」「移民を入れないと解決しない」と結論付けるのが日本のスポーツファンでの間では日常光景になっている。

 

まるで日本人選手が先天的にどうしようもないフィジカル不足であるかのように言われるのだ。

しかし海外のスポーツ関係者はその問題に対して「そもそも日本人は食べる量が圧倒的に少ない」と指摘する。

真の問題点は食べていないことにあるのだ。

海外の食事などを見ても日本のMサイズが海外のSサイズだったりするし食材でも量が非常に少なかったりする。日本人が物を食べない背景には食品が高価だという事も背景にあるかもしれない。食品の輸入国であり生産国ではないのでそれほど安くなかったり量が少なかったりするのだ。

そのため幼少期や成長期に食べる量がどうしても少なくなってしまい最終的に骨格や体格の面で大きな差をつけられてしまう。

成人してからトレーニングをして体を大きくすること自体は可能だ。

しかしそれは見せかけの筋肉や表面上の大きさでありそれらを支える骨格の部分では成人してからのトレーニングではどうにもならない部分がある。

そのために成長期にどれだけ食べて体の基礎を作るかが重要なのだ。こればかりは18歳を過ぎてから一人で独自にやっても絶対に不可能な事であり親や周りの人間がサポートする以外に方法がない。子供のころはトレーニング意識が低く食べる事に無頓着になる場合がある、今食べることの重要性にその時は気づかず成人してから「食べておけばよかった」と後悔したときにはもう遅い。

 

よく外国人スポーツ選手とのフィジカル要素の違いで骨格があげられる。身長は同じだが骨の太さや首の太さ、足の太さなどが決定的に異なっているのだ。それは確かに民族的な理由もある。しかしそれが全てではない、やはりその背景には食生活の要因がある。単純に量が少ない事はもちろんだがタンパク質系の食事が少ないのも問題が。

たとえばアルゼンチン人サッカー選手は牛肉生産大国、消費大国だけあって子供の頃に非常に牛肉を大量に食べて育つ。そのために筋肉や骨格が育つ構造になっている。

日本では牛肉の部分で真似をすることはできないが例えばで代替することは可能だ。牛を大量に育てる土壌は存在しないが広大な海が日本には存在する。その最大の利点を生かして魚を食べることも重要だ。実際アルゼンチン代表リオネル・メッシは怪我がちだったが魚主体の食事に切り替えて怪我が減ったと言われている。

むしろ日本の環境は魚にこれだけ恵まれているという点でアルゼンチンより有利だという事すらできる。現状魚の消費量は年々落ち込み、その調理のしにくさもあり敬遠されている。タンパク質摂取と魚介類摂取の重要性を広く認識させていくことも日本のスポーツ環境の育成において重要なこの1つだと言える。

 

また食べるだけでなく最終的には寝ることも大事だ。どれだけ食べても寝なければ意味がない。寝ることはいわば最後の総仕上げと言える。

しっかりトレーニングし成長期に睡眠と食事で体の基礎を作り上げることがアスリートの育成において非常に重要だ。

そしてそれらは成人してからではどうしようもできない物でありこの時期のサポートを周りの人間がする事や、10代の頃からそのことを本人も意識し続けることも大事だ。

例えば本田圭佑は高校サッカー時代にプロテインを大量に購入して自分で体作りをしていた。食事だけでは足りないのでプロテインで補う事もスポーツに置いては非常に重要だ。しかしこのプロテイン摂取もできれば小学校高学年ぐらいから日本でスポーツ選手を目指す家庭では常識的な習慣にしていくことが理想だ。

 

確かに日本人のフィジカルは外国人に比べて劣っている部分もある。しかしそれでもまだ努力の余地はある。先天的な問題だとすべてを片付けてしまうのではなく習慣的な問題もあることを認識するのがまずはスタートだ。「移民を入れるべき」と考える前にまだできることは数多くある。

魚料理や肉料理、チーズ料理を増やし、プロテインなどで補うと言ったことがスポーツをしている子供がいる一般家庭で当たり前になっていけば日本人のフィジカル改善の余地はまだ多いにあるのではないだろうか。

日本製が多いのがエアガン業界の魅力ではないか

一昔前まではメイドインジャパンや国産と言えば質が高いという事で信頼されていたが最近では日本製という物が日本ですら希少なものになりつつある。日本製を探すことの方が難しい時代になっていて日本ですらMADE IN JAPANの表記がレアだったりするし有名な携帯ゲーム機やスマートフォンはほとんどが海外製だ。パソコンも海外製、日本メーカーだと思いきや製造は海外だったりする。

もはや絶滅危惧種なのが日本製やメイドインジャパンになってきている現実がある

 

しかしエアガン界に置いてはまだ日本製は多く、日本メーカーがしっかり日本で作っている。世界的にも日本製エアガンは評価が高く輸出もされており実は日本経済に影で貢献しているのがエアガン業界だ。当然ながらエアソフトガンはパーツが多く、その部品にも数々の日本メーカーが携わっている。そしてそれを日本で製造し日本で販売している、この一連の動きの中には数々の人々が携わっていて日本経済に非常に貢献して支えているのが実はエアガン業界だ。

最近不景気だと言われどんどん海外に生産拠点を移す日本企業が増えてきたが東京マルイ、WA(ウェスタンアームズ)、KSC、タナカ、マルゼン、マルシンなど様々な日本のエアガン企業は日本製に拘って生産している。

エアガンは確かに高い、でもその値段にはわけがある。その質は間違いなく一級品で世界トップクラスのクオリティを持っている。やはりまだ日本でしか作れない物は多いのだ。

なんでも海外製が増えた今の時代だからこういったエアガン業界のようなジャンルは再評価されるべきだなと個人的には思うし、もっと評価していきたいなと思う。経済支えてくれるのはこういう業界なのではないかなと思う。

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ゲーム機もフィギュアも洋服も家電もなんでも海外製品ばかりになってきた今の時代こういったホビー商品が日本で製造されているのは貴重だし、1つのメーカーの1つの商品が売れることでそこに携わっている多くの人にお金が行き渡る。本来日本経済の構造はこのような構図で成り立っていて、その時代が日本の経済成長期でもあった。

しかし今はとにかく海外で製造されるし、日本でもいろんな工場が閉鎖したり、そもそも日本人の購買意欲が落ちて物を買わない時代になった。

こういう時代だからエアガン業界のこのあり方や構造ってもっと評価されるべきなのかなとも思うしどんどん海外に品質や技術、そして経済力が追い付かれている時代だけどもエアガンはやはりまだ日本製が強い。こういう貴重なジャンルを大事にして支えていきたいし、こういうジャンルが評価されなおされればすごく助かる人も数多く存在する。その製造工程には数多くの人が携わっているのだから誰かが買う事の日本への影響力とても大きい。

結局誰かが買ってくれないと経済は回らないし買ってくれることでいろんな人にお金がいきわたる。しかもエアガンの場合は様々なパーツや工程が存在する為そこに携わる人の数も膨大。そういう幅広い水脈のようなものが経済で一人が何かを買うことにはとても大きな意味がある。

例えば電動ガンならばそのモーターも精密品だし、ネジも膨大に存在する。そしてそれを組み立てるノウハウというのは長年受け継がれてきた製造業のノウハウがつまっている。実際電動ガンを自分も持っているけどももはや家電かというぐらいに精密で非常に優れている製品。この技術を廃れさせちゃいけないしこれからも盛り上がっていってほしいなと思う。そこにはやはり買う人の存在が必要だしファンがいなければ成り立たない。

最近サバゲーブームミリタリーブームも来ていてエアガンの消費も拡大している。一昔前に比べれば明らかにエアガンやサバゲーという趣味に対するイメージは向上してた。これはとてもすごくいい兆候だと個人的には思う。日本で作られたものがどんどん売れて日本経済が回る、そう考えると昨今のサバゲーブームやミリタリーブームは凄く世の中の経済構造にポジティブな影響を与えているように思う。それでまたエアガン業界が潤ってさらに新商品が開発されたり、新技術が開発されればクオリティも評価され海外への輸出も更に拡大するし景気も盛り上がる。

影ながらこうやって頑張ってる日本企業がまだ数多く日本には存在するし、エアガンメーカーが日本でこれだけ発達してることってエアガンファンにとってはある意味世界一ありがたい環境なのかなとも思う。

是非ともこれからどんどんエアガン業界やサバゲー業界が盛り上がって言ってほしいと願わずにはいられない。

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ソシャゲが流行った理由は日本人のカジュアル信仰にある

ソシャゲ、つまりスマホでやるソーシャルゲームが流行ってからもうかなりの時が過ぎた。最初は批判されていた課金も一般的になり、自分の家族ですらソシャゲをしているし職場、人によっては学校といった環境でもスマホでゲームをしているのは一般的な光景だ。電車の中でも多くの人がゲームをしているし、人が集まればどのゲームをやっているかとう話になる。

そしてその話は当然ながらコンシューマーゲームのことではない。

昔はゲームの話と言えばゲームボーイでどのソフトを持っているか、プレイステーションで何をやっているかだった。それが今やコンシューマーでゲームの話をするのはよほどコア層である。オタクですらアイドル育成ゲームの話をする時代でありコンシューマーの話を出さなくなっている。

ちなみに自分自身は圧倒的にコンシューマー派でありゲーミングPCを使ってパソコンでゲームをするというのが基本になっている。

 

しかし同時にそれが少数派であり、一人の友人を除いては周りにTVゲームやPCゲームをしている人はいないというのが現実だ。ちなみにその友人も熱烈なソシャゲアンチである。

我々コンシューマー派からすると「なぜあんな何世代も前のしょぼいゲームをするのか」と思わずにはいられない。小さな画面で不便な操作方法でやって何が楽しいのか、そして課金しなければついていけない。スマホを使う時間があるならば普通にネットをしていろいろ調べたりするわけであり、わざわざ不便なゲームをスマホで使用とも思わない。更にスマホの容量もゲームは圧迫する。

唯一ポケモンGOだけはポケモンファンとしてやったことがあるがそれも結局飽きてしまい、スマートフォンでゲームをする文化は自分には合わないと再確認した。スマホでは完全にネットを見るだけであり、ゲームをやるならばPCや携帯ゲーム機でやるタイプだ。

 

しかし同時に世間でソーシャルゲームが流行ったこと、そしてコンシューマゲームの地位が下がったことは必然だったとも理解できる。日本社会においてソシャゲが選ばれることはもはや必然だった。

その理由をいくつか考察していきたい。

1:スマホは誰もが持ってるゲーム機

スマホというのはジョブズが提唱したように様々な機能を1つでできるマルチタスクなデバイスである。様々な目的ごとに別の道具を使うわけではなく1つの道具ですべてをやるというジョブスの理念を体現したのがまさにスマートフォンだ。

そしてそれはゲームの役割も同時にこなす。スマホはゲーム機でもある。しかも誰もが持っているゲーム機である。もちろん全員が持っているわけではないが、少なくとも他のゲーム機よりは圧倒的に普及している。スマホがゲーム機だと考えたときに実は1番普及しているゲーム機だと考えることもできる。

わざわざゲーム機を買わなくてもそこにゲーム機がある。まさにスマホは巨大なゲーム市場なのだ。もはや今の時代わざわざゲーム機を買ってまで真剣にゲームをやりたいという自分の様なマニアは少数派になってきているのだ。

 

2:携帯ゲーム機ですら持ち運びが面倒

スマホはゲーム以外の機能も持っている。それはつまりゲーム機以外としても常日頃持ち歩いていることを意味する。ゲーム機ならばゲーム機としてしか使えないため、本当にゲームをしたい人だけしか持ち歩くことはない。

ましてPCゲームやテレビゲームなどは持ち運びができない。その一方でスマホを持ちあることは持っている人にとっては習慣である。外出先でSNSや通信アプリをチェックすることもできるし、暇なときはネットで調べ物をしてゲームをやりたい気分になればゲームを出来る。この特性は非常に強力なメリットだ。

確かに携帯ゲーム機も持ち運びはできるが「人前でゲームをやっている」ということが露骨に見られてしまう上に、携帯ゲーム機も実際の持ち運びを考えるとわりとかさばるのが現実だ。それに比べてスマホは非常に小さい。一枚の板であり薄いためとにかくかさばらない。それにくらべてゲーム機としての使用しかできない物をわざわざ持ち歩くのは確かに現代人にとって面倒な事なのかもしれない。一応他の使い方もできるが、それは同時にスマホでもできる事でありゲーム機である必然性がない。

もはや携帯ゲーム機ですら家でやるゲームになっているのが現実だ。

現代人はとにかくカジュアル性を重視する。ゲーム機をわざわざ持ち運ぶ、ゲームをするためにわざわざ家に帰るということがすでに億劫で重い事である。一方スマホでゲームをすることは非常にカジュアルな行為。

どれだけゲーム機であるコンシューマーゲームが素晴らしくても、そのカジュアル性に勝てないのである。本格的に凄いゲームをしたいという人は少数派で、大部分の人がカジュアル性を重視する。それゆえにソシャゲはここまで存在感を高めた。

更にやりたくてもできないという現実もある。実際ゲーム機をそろえるというのはかなり経済的には負担であり揃えなければならない物が多すぎる現実はゲーマー以外からするとかなりわずらわしいものになる。

ゲーマーとしては残念だが、そろえるものが少なくて済むことやどこでもできるという事はゲームとしてのクオリティを凌駕する大きなメリットになっているようだ。

 

3:時間は有限であうという当たり前の事実

現代人は忙しい、学生も社会人も常に外出して社会に携わっていなければならない。世間的に見ればどこかのコミュニティに外出して出かけなければならない人が多数派だ。この社会にいれば学生や社会人として忙しい毎日を送ることがほとんどの場合求められる。

そういう時に「家でゆっくりゲームを出来る時間」というのはかなり貴重なものになってくる。家にいるときも学校や社会で生活していればその為の準備に時間を取られ、家族と暮らしているならばなおさら時間はないだろう。

もはや現代人にとって一人でゆっくりできる自由時間というのは貴重過ぎる者なのだ。

そしてそれは必ずしも家であるとは限らない。自分がゆっくり時間を家で使えるという条件がそろうケースは1日の時間の中でそれほど多くはない。

時間はあるけど、今は外出先というケースも少なくない。

そういう時にまさにとりあえず持ち歩いているスマホが良い暇つぶしになる。

そりゃ皆家でPCゲームやテレビゲームをじっくりできる時間があるならばそれだけゲームをやりたいに決まってる。ゲームが好きな人もゲームをやれる環境と時間がたっぷり揃うならばそれをやりたいはずだ。皆ゲームを嫌いになったわけじゃないのだ。

 

しかし現代人は忙しい。

空き時間というのは必ずしも理想的な条件で訪れるわけではない。空き時間が欲しいときには空き時間がなく、空き時間が欲しくない時に空き時間が訪れる。

そういうときに環境をほとんど選べずに好きにできるスマホというのはやはりゲーム機としてメリットが大きい。電車の通勤時間にゲームをやれたり、外食中にゲームを出来たりする。食事をしながらゲーム機でゲームをすることは批判されるが、スマホならどこか許されるという風潮もある。マナーがいい事とは言えないがそれでもゲーム機に比べると印象はまだマシという側面もある。

とにかくスマホは便利でカジュアルで多くの環境に対応できる汎用性の高いゲーム機なのだろう。これだけメリットがあって自分はスマホでゲームをやろうとは思わないが世間的にはそれだけ利便性やカジュアル性を重視する人が多いという事なのだろう。

4:みんな真剣にゲームをしたいわけじゃない

結局のところゲームにガチに拘るという人はネットでは多いように見えて世間的には少数派なのである。また拘りたくてもライフスタイルがそうさせてくれないという人も多い。ゲームに拘る嗜好の持ち主が少ない上に、持っていたとしてもライフスタイルがそうはさせてくれないとなるとかなり世間的には限られた存在になってくる。

家でゆっくりできるならわざわざゲームをするのも大変だし、他にも娯楽は溢れてる。

仮にゲームをしたとしても、高画質で高クオリティでオンライン機能が充実していて高いゲーム性があるという事を求める人がどれだけいるのだろうか。

テレビゲームやPCゲームになれた我々コンシューマーファンからするとその機能は優れた物ではないが、そもそも全員がそういった経験があるわけではない。最先端の環境でPCゲームやテレビゲームをしたことがある人は実はそれほど多くない。

そういう人がソシャゲをやっても別段劣ったゲームだとは思わないのが真実なのかもしれない。我々コンシューマー派が「このゲームはこんなにも素晴らしいんだ」といったところで知らない人からすれば、今のゲームでも十分面白い。わざわざ環境をグレードアップさせて凄いゲームをやることは、カジュアル性を求める今の現代時にとって面倒な事であるしする必要性もない事なのだ。

5:誰かがやっているという事が大事

上記のようにコンシューマーゲームをじっくりやれる人が限られてくるとそもそもゲーム人口が少なくなり周りはソシャゲ派であふれかえることになる。

人間の心理として「周りがやっている物をやりたい」とうのがある。コンシューマー派だってオンライン人口の多さや、売れてるゲームなどをやるように決して例外ではない。

しかしそもそも大多数の人にとっては「皆がやっているゲーム」というのがそもそもソシャゲなのだ。結局誰かがやっているということ以上のメリットはなくて、周りがやってるからその一員になれるのが楽しいし、誰かとやるからそのゲームが面白い。周りがやっているということはゲームにおける最大の魅力なのだ。

実際自分たちが子供の頃に熱心にはまったゲームもその学校コミュニティの中で流行っていたからやったというのがきっかけであることが多い。まわりがやってるからやるというのはゲーマーの普遍的な習慣だ。

そしてそれが今はソシャゲになっただけ。基本はもしかしたら変わっていないのかもしれない。

周りがやっている、一緒にやる人がいるという事が最大のコンテンツ。一人でどれだけ素晴らしいゲームをやっても大部分のユーザーにとっては面白くない。自分の場合まわりにやってる人がいないゲームも一人で楽しめるタイプだが、そういった性格の人は実は世間では多くない。根っからのゲーマー気質で周り関係なく自分が好きなゲームをやるという人はそれほど多くないのだろう。しかもそういう人でもネットで人気ということを重視していたりする。リアルコミュニティでの流行は興味がないがネットの流行には一体感を感じているケースが多い。

ゲームにおいて流行っていることや誰かがやっているという事は最大のコンテンツや利点なのである。

 

総評

これまでいくつかの要素を考察してきたが日本人のカジュアル傾向がやはりすべての理由に共通しているように思う。日本人の根底にはカジュアル信仰がある。日本人は何かをコンパクト化させる技術が非常に高い。それも「小さくしたら使いやすい」という発想から出てきている。

小さくして使いやすくして、更に一般に普及させる。

わざわざ本格的にやるよりもカジュアルに済ませたい。何かをしっかり構えてやるよりも手軽にやりたい。そういうカジュアル性重視の国民性がここまでソシャゲを流行らせた理由であるかのように思う。欧米ではまだテレビゲームが普及しているが、日本では欧米に比べるとソシャゲがかなり強い。

そういうことを考えるとやはり日本人は普段持っているスマホで簡単に済ませられるカジュアルなゲームとしてソシャゲを愛用していることがわかる。これからもこの利点に基本的な変化はないであろう。コンシューマー側が逆転するならばそのカジュアル性で対抗するか、カジュアル性すらも凌駕する優れた魅力が必要になってくるだろう。