嫌われないようにする事はとても疲れることだよ
時々人生論語りたくなる衝動がやってくるので、よくありがちな「嫌われる事」に対する哲学を語ってみたい。
嫌われる勇気だとか、嫌われる人が上手く行くだとかそういう話はよく聞く。
今の時代、第三者からの評価というものは自分を判断するための指標として欠かせないものになっている。
それどころかその傾向が行き過ぎて、もはや数値化される世の中になっている。
基本的に万人から好かれる人などいるわけが無く、好きだという感情自体複雑でよくわからない。
現代科学をもってしてでも解明できない「感情」というものについて、凡人の我々が悩んだところで仕方がない。
そもそも好きか嫌いかなんて曖昧でどうしようもないという前提から入らなければならない。
感情の秘密についてはノーベル賞を取ってきた歴代の科学者ですら解明できないのだから、普通の人間が分からなくても当然極まりない。
歴史上これ以上の天才は存在しないと言う人ですら感情については説明できたためしがない。
仮にアインシュタイン、ダ・ヴィンチ、ノイマン、ガウス、アリストテレス、ロンメル、モーツァルト、ボビー・フィッシャーと格分野のトップクラスの天才をここに全盛期の状態で出現させ議論してもらったとしても答えは出ないだろう。
それほど感情というものは未知の物であり、そこに左右されるということはなんら恥ずかしい事ではない。自然現象に人類が逆らえないのと同じで、結局のところ感情には抗えない。
スポーツ選手が筋肉やスタミナのようなフィジカルの調子と向き合わなければならないように、個人もまた感情という問題と向き合わなければならないし、それは完全にコントロールできるものではない。
まず大前提として現代人はあらゆることに労力を使いすぎている。
ただでさえいろんなことを気にして生きていかなければならない時代に、特に「嫌われないようにする事」への投資労力は冷静に考えて割に合わない。
人はどれだけ好印象を持たれる事、そして嫌われないことに対して過酷なエネルギー投資を行っているのだろう。
発電にかかるエネルギーで人類どれだけ消費してるんだよみたいな話で、現代人は「好印象」という発電にエネルギーを使い過ぎている。
前世紀にはエネルギーをありったけ使うことが許されていたが今は省エネの時代になっている。しかしその反動で今度は好印象という資源を獲得するために人は莫大なエネルギーを使っている。
天然資源が枯渇していく時代に、ある意味で感情というのは無尽蔵の資源である。
人類最後のフロンティアは感情であり、人々がその最後の桃源郷を求めることは必然だ。
しかしここまで努力してもそれは結局のところ無為に終わるという虚しさが存在する。
自然を犠牲にしてきた近代的な開発の末路が現代であるように、感情を求める開発というものも限界に直面しようとしている。
そもそも嫌われないようにする以前に、他人はお互い自分にそこまで興味がない。
嫌われる以前の問題なのでそこまで気にする必要はないと開き直ることも出来る。
嫌われないようにするという事に必要なエネルギーは莫大である割に、嫌われる時は一瞬で儚く終わる。
気に入られようとする努力がいつしか、嫌われないようにするという防衛的な物に変わった時、それは瓦解する運命にある。
嫌な部分を見ても去っていかない人だけが本物であって、それは「坊主で野球辞めるような奴はどうせ他の理由でも辞めていく」みたいな理論とも似ている。
ちなみにそうは言っておきながらも、自分は甲子園の実質的な同調圧力による坊主強制に反対しているというダブスタである。
とにかく好印象というのは「維持費」とでも表現していい物が必要であり、ランニングコストとしてかかるものが無期限に存在する。
もちろん印象が良いと言う事は大きなメリットをもたらすときもある。
基本的に今の時代「良い人」が世間的に求められているし、それだけ嫌な人が現実には多いのだろう。
自分自身、本当に良い人に会えたことなど片手で数えるぐらいしかいないし、嫌な人は両手では数え足りない。
でもそれが普通の事なのかもしれないし、良い人というものは絶滅危惧種のような存在だ。
だから世の中に基本的に期待してはいけない。
その一方で、良い人であることが求められる世界というのも脆い。
なぜならば良い人だからと言って優秀であるとは限らないからだ。
どれだけ嫌な奴であっても自分と協力すれば大きなことができる人ならば、その人は自分にとっては最大の仲間となる。
いくら良い人であっても何もできないならば前に進むことはできず、現状を肯定し合うだけで終わる。
良い人かどうかで判断する時代は終わっていて、嫌いな人でも補完し合える関係であれば協力し合うという時代になっているのではないか。
イギリスもソ連の事が好きで同盟を組んだわけではなかった。
しかしその大嫌いなソ連と組んで、もっと嫌いなドイツに勝って第二次世界大戦に勝利した。
ヒトラーという最大級に嫌いな人に勝つには、ちょっとだけ嫌いなスターリンと協力するということをチャーチルは選んだ、そして勝ち残った。
嫌われない事に尽力することはコスパが悪い。
むしろ嫌われることの方が実は得をするし、嫌われるほど捨てていたはずの好印象を得ることができる。
ちなみにこのことを日本人、しかも女性で実現している人がいる。
一見すると歴史の大きな出来事のように思えるが、実は日常の中で良く見かける光景だ。
誰だかわかるだろうか?
連日テレビで見かけるあの女性アイドルだ。
指原莉乃という響きだったような気がするが、気のせいだろうか。
キンプリのシンデレラガールはアイドルソングとして最高
最近ジャニーズの曲の中で何にはまっているかと聞かれたら、King & Princeのシンデレラガールっすねと答える。
そもそもそんな会話をする機会が無いので、ここでこの曲の魅力について語りたい。
まず自分は平野紫耀主演の花のち晴れをしっかり見ていて、その影響でこの曲に最近はまっている。
あのドラマ凄く良くて、近年まれに見る王道少女漫画のドラマ版のような感じで毎週楽しみに見ているし、その作中でこの曲が使われるタイミングがとても上手い!
本当に良いシーンにこの曲が流れると絶妙に合う。
毎回展開が面白いし、華やかな世界を描いているので映像を見るだけでも楽しい。
花のち晴れはいい意味で典型的なジャニーズ主演のラブコメドラマで、なおかつこれぞアイドルソングというようなこの曲が流れるので絶妙にマッチングしている。
少女漫画の典型がまさに現実化していて見ごたえがあるし、平野紫耀演じるキャラが普段の本人とあまり変わらないところも絶妙な配役になっている。
ジャニーズ主演のドラマを見て、その曲を好きになるという王道パターンってやっぱいいな~って再確認できるし純粋にKing & Princeの曲としても似合っている。
サビの部分の「いつになっても 幾つになっても」は覚えやすいしメロディも歌詞もいい。そして6人それぞれに見どころがあり、どのパートが好きかでも好みが上手く分かれるようになっていてライブパフォーマンスでも映えると思う。
キンプリは6人全員ハイレベルなイケメンが揃っている上に、なおかつそのメンバーの平野紫耀がドラマに出ている、そしてデビュー曲としてこの曲が流れる。
ジャニーズの神髄が全てここに極まっていて「これこれ、こういう感じ待ってた!」というのが率直な感想で、そういった現象や文化含めて気に入っている。
そして何度も思うけど、6人そろったキンプリは最高の一言に尽きる。
ちょっと前は勝つんだウィンでデビューするべきだとか思ってたけど、今振り返れば決して無駄な機関ではなかったし今がベストだなと思う。
本人たちは名前の通りキングとプリンスで、そしてデビュー曲がシンデレラガール、完璧すぎる。
こういう王道感はやはりジャニーズがやっていくべきことで、綺麗でかっこいいところはジャニーズらしい。
どこに出ても抜群にかっこいいし早くMステで見たくなるし、今後もデビュー曲として大舞台で輝くようなシーンを見てみたい。
本人達もきっと今後この曲に思い入れが出てくるだろうし、ファンも時が経つにつれてシンデレラガールよかったとなっていくと思う。
絶対ライブの大事なところで流れたらかっこいいだろうし、グループのイメージを象徴する曲になりそうな気もする。
華やかな演出が本当に似合う曲調やメロディだし、そういうのも期待したい。
もちろん勝つんだウィンにも大事にしてほしいし、シンデレラガールも大事にしてほしい。どちらもこのグループのイメージを表しているので、良い使い分けができればこのグループはもっと成長していくかもしれない。
とにかくこの曲をリアルタイムで聞けてる今というのは、後から振り返ったときにキンプリのいい転換点でもあり、始まりの時として懐かしくなると思う。
ジャニーズのデビュー曲や代表曲というのは本当にどのグループも素晴らしいし、カウコンとかで集まったときの迫力は本当に凄い。
今から想像するだけでも楽しみになってくるけど、大型音楽番組に出演する時、この曲を歌うかもしれないと思うとシンデレラガールは結構大事な曲になる。
なかなかいい曲でデビューできたんじゃないかなと思うので、King & Princeのこれからの活躍を是非とも期待していきたい。
いよいよ1か月後にワールドカップが始まるわけだが・・・・
6月15日に開幕戦が行われるロシアワールドカップが目前に迫っているのにも関わらず、世間の注目は閑散としている。
それどころかもはや自分自身、いまいち今回のワールドカップに向けて精神的に盛り上がることができておらず冷めている。
冷静に考えて未だに新体制による試合を本大会前に一試合も見れていないという状況はやはりおかしい。5月30日にガーナとの練習試合を行う予定ではあるが、一体こんなもののどこに価値があるというのだろうか。
もういっそのこと何をしてくるか予想がつかないぶっつけ本番作戦というクレイジーなことを行うとでもいうのだろうか。
事前に知られていたという陰謀論は諸説あるが、これではまるで奇襲攻撃に打って出た真珠湾攻撃のように思えてならない。
源平合戦における一ノ谷の戦いにしても、織田信長が今川軍を破った桶狭間の戦いにしても、日本人は相手の予期していない奇襲攻撃が好きなのだと考えると今回の西野ジャパンに期待できなくはない。
もう開き直って対戦国には「テスト勉強してない」というふりをして、裏ではしっかり策を立てているというパターンで挑んでもよいのかもしれない。
サッカーは時折運にも左右されるのでマークシート形式とも似ている。
奇跡が起きてグループリーグ突破どころかベスト8以上に進む可能性もあるわけでも、もうこうなったら選手たちもやけになるしかないだろう。
下手に「自分たちのサッカー」を準備して挑んだ前回大会どうなったかを考えると、これぐらいが丁度良い可能性だってある。
それにしても正直なことを言えば、こんな4年後になっているとは思ってもいなかった。
先日、自分の中でワールドカップムードを盛り上げようと4年前に録画していたW杯特集番組をいくつか見て当時の思い出を振り返った。
岡田武史のワールドカップ32日間の熱狂を見つめる旅、三浦知良が民放のW杯特集のインタビューに応じる姿、NHKが丁寧に作り上げた総集編で中田英寿が語る姿、それらを今見るとこの惨状が残念でならない。
まだせめてハリルホジッチとこの航海に出ることを決めていれば決心がついたのかもしれないが、あの土壇場の解任劇で冷めたサッカーファンも多いだろう。
4年前のW杯特集でハリルホジッチが高頻度で登場したのだが、その姿を今見るととても悲しくなった。
岡田武史が日本代表のグループリーグの敗退後に「もう自分の中でワールドカップが終わった気がする。ワールドカップは4年後までやってこない」「世の中は起こる必要がある事しか起こらない、これで日本のサッカーもう一度考え直せと言う事」と語っていたことも、今では虚しい。
三浦知良が地道なサッカーの発展を継続することを唱え、中田英寿が路線は間違っていなかったと語った4年後がまさに今現在だ。
岡田武史だけでなく、選手として出場した吉田麻也も初戦で本気に成れなかったこと悔やんでいたことが印象深い。
コロンビア戦の前半のような戦いを最初からできていればまた違った結果になったのかもしれない。そして今回もそのコロンビアと対戦することになっている。
積み重ねてきた戦術や自分たちのサッカーなどもはやどうでもよく、とにかく今回は本気で最初からやるしかない。
それにしてもこの4年間、日本サッカー自体明るいニュースが無かった空虚な暗黒期だったように思う。すぐに思い浮かぶことでいえば、岡崎慎司がレスターでプレミアリーグ制覇の一端を担ったことと、クラブワールドカップで鹿島アントラーズがレアル・マドリードに迫ったことぐらいだろうか。
それ以外で特にこの4年間、日本サッカーにワクワクしたことは覚えていない。
選手としても長友佑都はインテルにいないし、本田圭佑もACミランにいない、香川真司もマンチェスター・ユナイテッドから去っている。
かと言って他にビッグクラブに移籍した選手がいるわけでもなく、進んでいるような停滞しているような時期だった。
しかしマクロな視点で見ればこういった4年間も必要だったと言える日が来るかもしれない。
「思ったような未来はやってこない」というのは個々人の人生においても同じで、ブラジルワールドカップ後に新しい人生に向かって行こうと思っていた人ほど現状の自分と、日本代表の有様を照らし合わせて思う事があるかもしれない。
まさか自分もこのような状況でロシアワールドカップを迎えるとも思っていなかったし、なおかつこんな日本代表を見ることになるとも思っていなかった。
清武弘嗣なんて「次のワールドカップではキャプテンマークを巻いていたい」と語っていたけれど、まさかこんなことになっているとは予想もしていなかったはずだ。
コロンビア戦で当事者として悔しさを味わったはずの柿谷曜一朗も、残念ながらもう日本代表からは部外者として扱われている。
松潤に「もう一度あの景色を見たい」と夢を語っていた内田篤人も虚しく今は帰国している。
なんだかんだで息が長いのが長谷部誠と長友佑都で、本田圭佑と香川真司がかろうじて滑り込む生命力をみせようとしている。
かろうじて期待できるとするならば堂安律と中島翔哉がワールドカップ後に何かできるかだが、一時代を築いた選手たちの後ではきっと物足りないだろう。
本田圭佑の時代を最後にもう日本のサッカー熱も今後かつてのように世界に向かっていく熱狂を取り戻すことは無いかもしれない。
久保建英と中井卓大に期待がかかるが、おそらく彼らが成熟する時代には現代サッカーのアスリート化が更に進んでおり、なおかつ身体能力が高い選手が技術まで兼ね備えているようになっている時代がやって来る。
そもそも今の子供たちや若い世代が、世界やスポーツに憧れるということ自体が無くなってきているのではないか。
まだサッカー選手は子供の将来の夢としてはトップを争っているが、今後スポーツに興味が無く、楽しそうなユーチューバーになりたい世代や、将棋の藤井聡太のように頭脳で大人に挑むことに憧れを見出す子が増えていくだろう。
少子化の時代に子供たちの憧れが変わり、更に日本人の志向自体が海外よりも内向きなものに変わってきている。
コンテンツとしてのサッカー観戦文化も日本人のライフスタイルに定着することは今後さらに難しくなっていくはずだ。
わざわざ日本人がサッカーを見る必要が無いと言えばそれまでで、ワールドカップの結果次第では大谷翔平や白井健三、宇野昌磨を見ている方が楽しいという時代になっていくだろう。
ある意味昔の日本に戻っていくというか、世界に憧れることに夢や興味を持たない閉鎖した時代に回帰するのではないか。
目前に迫りながらも、ワールドカップというものがこれだけ魅力を失いつつある今、日本人は自国で完結するものにしか目を向けなくなっていくようにも思う。
日本人もサッカーを必要としていないし、世界のサッカーも日本人を必要としていない。今後日本の衰退を考えるとジャパンマネーすら必要とされない時代が来るのが現実だ。
かろうじて世界に憧れていると言えばむしろ女子であり、TWICEに憧れて世界のスターを目指すというような前向きな憧れを持っている若い世代は今日日もう女性にしかいない。
はっきりいって世界で一番有名な日本人はサッカー選手でないことは当然ながら、もはやスポーツ選手ではなく、むしろTWICEのミサモの3人のような気さえしてくる。
今時新しい考え方に満ちて元気なのは女性がほとんどで、男性は時代についていけなくなりつつあると自分でも感じずにはいられない。
とにかく今はワールドカップだという明るい気分にはなれないし、今の自分ではW杯を心の底から楽しめそうにはない。
そしてそれは多くのサッカーファンにも共通しているように思う。
しかし前回、本番前の期待と熱狂が一瞬で崩れ去ったように、今回は不安と無気力感が一気に別の感情に変わることだってあり得る。
テスト勉強していないというブラフであることだけを内心期待しながら本番までの残された時間を過ごしたい。
悲報:熱く語れるオタク、もうジャニオタしかいない
「オタク」といえば簡単に言うと、好きなことについてやたら熱心な人たちの事である。
好きなことに対する熱量、自分がこれまでどういう経緯で興味を持ってきたきたか、それらのことをひたすら熱心の語ることがオタク文化であった。
正直に言うと自分は今のオタク文化に対して、何と言えばいいのだろうか、「物足りなさ」のような物を感じる。
好きなことに対して熱く語る人が今は消滅しつつある時代だ。
今の世の中に置いて、濃いオタク文化というのは失われつつあるのか・・・という諦めにも似た停滞感が自分を支配している。
しかしそんな中でも唯一、独特過ぎる人々を見ることができるジャンルがある。
それはジャニーズだ。
自分もこれまでSexy Zoneというグループや中島健人というメンバーについて語ってきたが、良く考えればそれって異常だよなぁ笑、なんてことを思う。
常識的に考えれば、もう何年セクゾや中島健人のこと語ってるのかよって思うし、そもそも異性じゃなくて同性に対する熱量ヤバイだろって我ながら思う。
異常なまでの執着心こそがジャニーズファンのアイデンティティだ。
不思議なことに、自分の中島健人熱だけは衰えない。
なんというか、ジャニーズってワインと同じで熟成すれば熟成するほど良いもので、年月をかけるほどに良さが分かってくる。
中島健人本人からするとこんな面倒なファンがいてさぞかし迷惑なのかもしれない。
しかし自分は相変わらず好きだ、この気持ちまさしく愛だ!
別に同性愛者でもなんでもないんだけど、やっぱケンティー好きなんだよなぁなんて思う。素直に自分は面白い人が好きで、中島健人は面白いからただひたすらに好きだけど、それは恋愛感情とかではなくて、なんかよくわからないけど見ていると面白いという現象が不思議と続いてきた。
見ていて楽しい、その理由は分からないけどなぜかその情熱は続く。
とにかくジャニーズ界隈で一番これいいなって思うのが、好きなことに対して全力である事が認められるという事にある。
一見すると流行の最先端を行っているジャニーズかと思いきや、むしろ真のジャニオタの間では「本当に好きでないと駄目」という風潮がある。
自分はこれが本当に気に入っていて、なんとなく流行とか、これ推しておけば通ぶれるとか、テンプレの最適解が正義みたいな感じが好きじゃない。
ガチで好きで、本当に気に入っているっていうこじらせた感じが最高にたまらない。
何よりジャニーズファンの最大の面白さは、好きなことについていくらでも語れるという事にある。
もはやジャニオタは文学者である。
「ファン」という言葉は、面白いという「Fan」ではなく、狂信的という意味の「Fanatic」を語源にしているという話を聞いたことがある。
まさにその意味で、とにかく好きならば世間の風潮であれ、周りの目線であれ気にしない熱烈的な風潮が最高だ。
よく「SNSで語りきれなくなったので、より文章で語れる場所に来ました」という感じのジャニーズファンがいるけれども、自分はそんなファンを常に歓迎している。
Sexy Welcome!
ジャニーズについて語ることはもはや文学です。
「好きなことは熱く無限に語ってナンボだろ」というのが自分の信念であり、時代の風潮、世論に流されず自分の好みをひたすら追求し続けることが「ジャニーズ哲学」なのである。
「アイツ頭おかしいだろ」と思われることはもはや褒め言葉であり、異常者であることはジャニーズ界隈ではスタートラインに過ぎない。
そもそもジャニーズ本人達が個性の強い方々なのでオタもそれを見習わなければならず、ぶっ飛んでいかなければならない。
そのノリについていってこそ、ジャニオタであり盛り上げていくことに情熱を捧げるべきなのだ。
他のジャンルと比べてみてジャニーズは傑出している。
1:ファンが熱く語っていい
2:熱く語るファンがいる
ジャニーズはむしろ適当に語る人や、有名メンバーをなんとなく推している人が軽視されるという古きよきオタク文化がある。
むしろ誰が興味があるんだっていう長々としたファン経歴を無駄に語る人の方が面白い。
そういう風潮が受け入れられるし、語りたくて仕方がない人に溢れている。
むしろ自分がSexy Zoneの中島健人を好きな事なんて、ジャニーズ界隈では「結構メジャーなとこ行ったなぁ~」と思われるくらいで、本物のジャニオタはもっとコアなところを言ってる。
むしろ今時セクゾの中島健人担当なんて言ったら、すげぇ浅いファンと思われるんじゃねぇかぐらいにおびえるほど、ジャニオタ界はいい意味で怖い。
伊野尾慧のことをブレイク前にチラッっと映る時代から好きだったっていうファンがリスペクトされるし、今時Hey! Say! JUMPだったらもはや有岡大貴、もしくはあえて高木雄也でもいってないと浅いって思われるんじゃないだろうか。
とにかくジャニーズファン、ジャニオタの方々はなぜここまで語れるのかという異常な熱量を持っている人が多く、いい意味でこじらせている。
複雑な心理が螺旋を描き、いつまでも語りたくなるような熱量は衰えない。
しつこいすぎるほどに語っても良い、それがもはや一つの文学ジャンルにすらなっている。
もはやジャニオタ界は「文壇」の場になっている。
結局ゲームが面白いかどうかって「やる場所」だよな
長年にわたる自分のゲーム遍歴の経験上、言えることが一つある。
それは結局ゲームなんてどこで誰と、どういう状況下でやるかが全て、プレーの質やゲームの世界的な価値など無意味だと言う事だ。
そもそも今の日本ではもうソーシャルゲーム、ソシャゲが圧倒的な多数派になっておりゲーミングPCでコンシューマーゲームをすることが至高だという時代ではなくなっている。
ファストフード店でワイワイ仲間たちとソシャゲ>>>>>1人でハイスペックPCの前に座って無言でFPS
これが現実であり、わざわざ今時ハイスペックなPCを揃えたり、据え置き機の前に陣取ってゲームをすることなどもう今日日スタイリッシュなことではないのだ。
どちらかというと自分はこれまで「ゲーミングPCの性能を追求しハイレベルな戦いを求めることがゲーマーの真の姿でござるよ」というタイプだったのだが、イマドキそこまでゲームに情熱と予算を傾けられる人ってそう多くは無いよなぁと気付き始めている。
なんというかもはやPCやオンラインゲームというのは無用の長物で、「最近の若者はスポーツカーに夢を見なくなって悲しい」という前時代的な人々ぐらい暑苦しい物なのかもしれない。
「ゲームはちゃんと修行して極めるべき」という思想自体がもはや時代遅れだ。
そんな時代に適応しようとしているのか、今の自分が一番欲しいゲームが例のニンテンドーSwitchになっている。出荷台数が増え空前のブームだとか言われているが、ソシャゲ全盛の時代にコンシューマー機がこれだけ躍進したことは明るい話題だ。
しかもネオンよりも、グレーの方が欲しいという完全に陰なタイプである。
今の自分の選択肢で迷っているのがパソコンのグラフィックボードを強化するか、素直にニンテンドースイッチの流行に染まるのかで、正直携帯ゲーム機の利点の大きさに壮大なスケール感というものは勝てないと気付き始めている。
結局のところいくら据え置き機やPCが凄くともそれって家でしかできないし、持ち運びができないという大変さは現代人のライフスタイルにとって厳しすぎる。
今になって思うけども、一番ゲームしていて楽しかった時代って小学生の頃に携帯ゲーム機を持ち寄ってわちゃわちゃやってた頃だよなぁと懐古してしまう。
あの頃のゲーム機と言えばライトの性能はそこまで明るくなく、屋外ではかなり見にくかったはずだ。しかし別にそれを気にしたことなどほとんどなく楽しめていたし、その空間が思い出に残っている。
逆にどれだけ最高級の環境を作り出そうとも部屋の中でやるゲームは味気が無い。
今の自分が最も情熱を捧げているゲームタイトルといえばEAのFIFAシリーズでこれまではPCでしてきたものの、もうこれも本格的にスイッチ版に参入しようかなと今の自分は考えている。
ゲームに大事なのは「非日常感」であり、その世界観に没入するためには日常に対する変化が必要になる。
正直に言えば毎日同じ部屋でプレーするのは完全にルーティンワークで、飽きてしまう。いつも同じ場所でやっていればそりゃ新鮮味はない。
しかし携帯ゲームは少し持ち運ぶだけで環境をがらりと変えられる。
例えば適当にファミレスやファストフード店に行けばいいし、軽自動車であってもどこかいったことがないところにドライブして、1人であっても車内で何か飲んだり食べたりしながらだと新しい刺激があって楽しい。
そもそもサッカーやスポーツ自体が、冷静に分析するより、面白い状況下で見たほうが思い出に残る。
近々ワールドカップ始まろうとしているが、結局のところ真面目に分析してみた試合よりも、見慣れていない頃に見た試合の方が今でも憶えている。
緻密な戦術分析をしながら見る近年のワールドカップよりも良くわからないながらも見ていた頃の方が面白かったし、ゲームもネットの攻略情報でオンライン対戦に適応しなければならない今よりも、ローカルな環境でやっていた頃の方が楽しかった。
学生ではなくなると中々同年代や同じ趣味の人と集まってゲームをするというわけにはいかない。
しかし自分のペースでいろんなところにいってちょっと気分転換をするだけで結構違うなぁということに今更ながら気付く。
人間って同じ場所で同じことをし続けるのって疲れると感じるようにできてるんだなぁと思うというか、移動ができるだけでだいぶ視野が広がるなと思う。
やる場所や環境、状況を変えるだけでまるで違うゲームをしている気分にすらなる。
そういう刺激が自分のプレーを今までなかったものにしてくれるのかもしれない。