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天理教は本当に危険な新興宗教なのか?

天理教といえば現代日本における新興宗教の代表的存在だ。

甲子園でも天理高校は強豪校であり天理=新興宗教というイメージは強い。日本における新興宗教の代表格と言っても過言ではない。

また自分自身関西に住んでいたことがあり関西地方ではその天理教の影響力を肌身を持って知っている。奈良県天理市にも実際に数回訪れたことがあり総本山の寺院的な場所にも行ったことがある。いわば宗教都市のような存在であり日本で最も宗教化された都市と言っても過言ではない。市庁舎が異様な形をしており、駅に降り立てばすでにその雰囲気の異様さがわかる。

街を歩いてみても主教職が非常に強く、一見すると普通の商店街があるがそこを歩いていくと天理教の総本山にたどり着く仕組みになっているのだ。もはや奈良県天理市は宗教に支配された都市だと言っても過言ではない。

宗教という事に無縁な一般の日本人にとって非常に怪しげな都市である。

 

しかし自分はその天理市が好きである。

基本的に自分はこのブログを見てもわかるように「怪しげな雰囲気」というものが大好きでありどこかで非日常的な空間を求めている。日本全国同じような都市ばかりではつまらないしそういう怪しい宗教都市があってもいいのではないかと思われる。

更に関西に住むとわかるが天理教の影響力は天理市だけにとどまらない。隣県にも天理教支部のような施設をちょくちょくみかけ、少し電車でその都道府県の秘境のような場所にいくとかなり大きな寺院のようなものがあり山奥で四六時中何か鳴り物を叩いているのだ。その地域では田舎の場所に行くとどこかノスタルジックな世界が味わえ、なおかつそこに天理教の大きな施設が存在する。更に天理教の総本山は世界各国から信者が集いその国籍を書いた法被のようなものを着ているし、夜にその総本山を訪れても信者が熱心に呪文のようなものを唱えていてエキゾチックな印象を与える。擬似的にチベットにやってきたような感覚を感じることができるのだ。そういったどこか旅のワクワク感、旅情のようなものを刺激し異空間のような感覚を与えてくれるという意味で自分はこういった新興宗教に賛成である。

日本の近代社会と天理教 (1969年) (日本人の行動と思想〈7〉)

更に天理教、決して危険な宗教ではないという印象だ。非常に穏やかであり若い信者でも熱心に信仰していて非常にマナーがいい。イスラム教が元々は古代におけるモラル形成の役割を果たしたように天理教徒は少し怖くて怪しげな印象を感じるが非常にマナーがいい。駅や街を掃除しているし挨拶もしてくれる。確かにそれはパフォーマンスや部外者にいい印象を与えようというプロパガンダなのかもしれないが、そもそも他人に興味がない一般の市民に比べるとどこか暖かい印象を与える。

そういった天理教にもしかしたら現代の寂しい世の中で心のよりどころを求める人がいてもおかしくはない。現代があまりにも無慈悲だから擬似的な優しさであっても新興宗教に心のよりどころを求める人はいる。

自分自身は新興宗教に懐疑的であるが、そういった判断がつかない人はそれを心の支えにする可能性があるし、迷惑をかけないならば本人がその教えを心の支えにすることは何の問題でもない。他の宗教に比べ勧誘活動はほとんどしないし、やめることが難しいという話も聞かない。そしてエキゾチックな雰囲気を作りだし旅先としても面白い。

むしろ自分の場合日本人の平均的な感覚として神道仏教を信仰しているし、天理教に鞍替えしたいとは思わない。しかしながらその街並みにはどこか風情がある。異様な建物が建て並び現代日本では見られない風景がある。

そういった物はどこか旅情を誘うし非日常のエキゾチックな空間にいざなってくれる。

冷やかしに行くのはもちろんよくないが、旅目的で行くことに関しては天理市天理教の影響の強い地域に行くことはおすすめだ。向こうも迷惑をかけてこないならばこちらも迷惑をかけない、そういったお互いに気遣いあった関係ならば現代において共存していけるのではないだろうか。少なくとも強引な勧誘活動をしたりテロを試みる危険な宗教団体に比べて非常に穏やかな宗教勢力であり大人しく、向こうからは迷惑をかけてこない存在に映ったのが天理教だ。こちらが攻撃をしなければ向こうも攻撃してくることは決してないであろう。