elken’s blog

ジャニーズとサッカーを中心にあらゆることを評論するブログ

現代サッカーでは司令塔にも高いインテンシティが求められる

2018年ロシアワールドカップを見ていて、非常に印象付けられたのがいわゆる司令塔と言われるポジションに求められるタスクの変化だ。

端的に言えば以前ほど縦への意識や速さ、そして強度、インテンシティというものが求められる度合いが高くなっている。

 

今大会のベスト4に残ったチームを代表する「司令塔」を上げるならばクロアチア代表モドリッチ、フランス代表ポグバ、ベルギー代表デ・ブルイネ、イングランド代表デレ・アリが代表格だ。

彼らのプレースタイルを見ていると、非常に「前を向く意識」とそのためのテクニック、その動作を実行するためのボールを受ける前のポジション取りなどに長けている。

ワールドカップというより個人技の能力が問われる舞台と、連携が緻密なクラブチームの違いはあるかもしれないが、基本的にはパスやゲームメイクを武器にする選手にも、まるでウィンガーやサイドプレイヤー並の前を向く意識が今は問われる時代になっている。

 

例えばデ・ブルイネが本領を発揮したブラジル戦、ベルギーはカウンター意識が非常に高く規律が保たれていた。この時何気ないセットプレーでデ・ブルイネに入ったボールをサイドに布陣したルカクやアザールを的確に見つけ確実にパスを通していた。これがブラジル撃破の原動力になったことは言うまでもない。

 

ポール・ポグバに関しても中央でボールを持ち、強引とも言えるフィジカルと、それだけではないテクニカルな駆け引きによって前を向き前線にパスを送っていた。

「ティキ・タカ」と呼ばれるスペインのプレースタイルが敗退し、カウンター主体のチームが勝ち残ったことは偶然ではないだろう。

いかに早いトランジションの中で一瞬のタイミングでボールを受け、前線に送るかが問われている。

今大会最高レベルのパフォーマンスを発揮しているモドリッチはこの中ではフィジカル面では恵まれないが前を向く意識や、周辺の選手を生かして前線の攻撃を活性化させる能力が高い。とにかくモドリッチにボールを渡せば攻撃が活性化し、連動が始まる。

 

このロジカルは非常にシンプルで、ボールを受ける前に次の展開を予想しているというサッカーの基本を忠実に実行しているに過ぎない。

高いレベルになってくると、特別に複雑な事ではなく基本的なことをより高いレベルで行えるかどうかが問われる。

 

かつて日本代表の監督を務めた岡田武史が「フランスワールドカップ以降、基本的な戦術に大きな変化はない。より速く、正確に、そして強くなっている。」と語っていたが、まさに今の司令塔と呼ばれるポジションの選手にはそのことが切実に問われるようになっている。

ボランチだとかトップ下だとか、ゴール前からの距離に違いを見出すことが無意味であり、そのプレー範囲は多岐にわたる。

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その定義さえも曖昧な時代に現代サッカーのトレンドは到達しており、デ・ブルイネとポグバ、デレ・アリ、そしてモドリッチのポジションの違いを規定すること自体がナンセンスだろう。そして彼らは中央のポジションでありながらサイドプレイヤー並に前を向く意識が高い。

仮にシャビ・エルナンデスやアンドレア・ピルロのような往年の名選手が現代サッカーに全盛期の状態で現れたとしても、当時ほどの活躍はできないのではないか。

むしろ今後評価されるのはブラジル代表としてかつて活躍したカカーのような選手が求められるのではないか。

あるいはスティーブン・ジェラードやランパードのようないわゆる「ボックス・トゥー・ボックス」と呼ばれる選手が求められるようになっている。

 

「レジスタ」がいよいよ本格的に淘汰され、より広範囲のトランジションを繰り返すアスリート能力が高い選手が必要とされている。

その一方でアスリート型の選手だけでは通用せず、高い技巧の精度が問われている。

むしろその複合型の選手が新時代の司令塔と言えるかもしれない。

それがこのロシアW杯で明確になった。

守備をしつつ低い位置から展開し、そして前線の攻撃にも加われる、その総合能力がミッドフィルダーに本格的に問われるようになっている。

W杯決勝のカードがクロアチア対フランスに決まったわけだが

ワールドカップは準決勝が一番面白い説がまた実証されたのではないかというくらいに、どちらも名勝負だった。

W杯がもうすぐ終わるという寂しさもありながら、決勝をかけたチーム同士の熱い戦いに感動させられた。ワールドカップとはこういうものだ、この2試合を見れただけでもこの大会を待ち望んでいた甲斐があった。

 

ベルギーを応援していた自分としてはこの舞台に彼らが辿り着けなかったことは悲しいが、フランスも見事だった。

そして何より今大会のクロアチアの躍進は凄まじい。

本当に死力を尽くしてここまでやって来た彼らの姿にサッカーがどういった競技であるかを改めて教えてもらっている。

難しい戦術的な議論はともかく、そんなことよりも「情熱」である、そして国を背負うというプライド、それを見せつけられているような気がする。それほどに彼らクロアチア代表の母国への思いは情熱的だ。

 

ワールドカップというのは「勝つ国が勝つ」と言われる大会であり、魔物が存在する。すなわち優勝国というのは伝統国に限られ、中々新しい優勝国が誕生することは無い。

ワールドカップ的な戦い方ができる国が勝つわけであって、まさに先日CL決勝のレアル・マドリードVSリヴァプールのように戦い方をわかっている国がトロフィーを手に入れる。

優勝経験国のフランスが試合巧者としての壁でクロアチアの勢いを防ぐのか、それともクロアチアは新しい歴史を作るのかが楽しみな試合だ。

 

今大会前に自分はフランス優勝予想でいたので、そこは筋を通すためにもフランス優勝を想定しているが、それは必ずしも個人的な願いとは相いれない。

日本でもおそらくクロアチア人気の方が高いだろう。

クロアチアは旧ユーゴの国らしく、とにかく足元の技術やアイデアに長けており、そして母国のために情熱的な姿がなんとも言えないような共感を誘う。

 

フランスももちろん良いチームである一方で、どうしても多国籍軍団という印象を受け、自国の選手だけで戦っているクロアチアのほうが日本の事情としても近いものがある。日本人の感覚に近いのは、プレーの内容的にも、そしてチームの構造的にもフランスよりもクロアチアのほうが似ているのは事実だ。

ただこれはあくまでサッカーを通して反グローバリズム的な主張をしたいわけではなく、現状の日本とはクロアチアの方が近しいスタイルだと言うだけの話である。未来はどうなるかは当然わからない。

 

クロアチア代表の中でもモドリッチのサッカーの巧さには相変わらず驚かされる。

一つ一つの些細なプレーに工夫や知性が込められている彼のスタイルは、いわゆるフィジカル不足を補って余りある。フランス代表のポグバやマテュイディのようなプレーは日本人には難しい世界のように思えるが、インテリジェンスとテクニックでゲームを支配するモドリッチのやり方は工夫次第では取り入れられそうな物だ。

今回、もしかしたらバロンドールを取るのではないかと言われているモドリッチは母国の英雄ボバンを超えているどころか、「クライフの後継者」との呼び声まで上がっている。

ポジション自体は違う物のサッカー観という意味では、前回大会クロースをMVPに上げた故ヨハン・クライフが存命していたのであれば、間違いなく彼のお気に入りだったはずだ。

決勝の結果次第ではモドリッチはサッカー史上最高の中盤の一人として今後数え上げられる領域に来ている。

 

その華麗なる司令塔と今回の準決勝において渡り合ったのがイングランド代表のデレ・アリだ。デレ・アリは延長線の最期こそフラストレーションを爆発させるシーンがあったが、試合を通じては非常に巧みなボール捌きを行っていた。

ワールドカップの終わりが寂しくなり、新シーズンに思いを馳せる身としては是非とも彼がバルセロナに加わりラキティッチとパウリーニョの後継者になることを期待したいという思いに駆られる。

 

もう一人新シーズンの動向が気になるのは何かと物議を醸しているエムバペだ。

中には「ネイマール二世」「ネイバッペ」や「エヌバペ」と揶揄されるほど、今大会印象の悪い遅延行為を行ったが、個人的には彼が高い評価を受ける理由を理解した大会となった。

ルカ・モドリッチ対デレ・アリが司令塔対決だったとするならば、エデン・アザール対キリアン・エムバペはドリブラー対決だった。

すなわち司令塔が勝敗を決めたイングランド対クロアチアと、ドリブラーが勝敗を決めたフランス対ベルギーという構図だ。もちろんそのほかの選手も高いクオリティを見せていたが、自分の中で印象に残ったのは司令塔とドリブラーだった。

 

この準決勝の二試合が面白かったのは激しいドリブラー同士の争いと、司令塔同士の意地の戦いが見れたことにあったように思う。

結果的に言えばフランスはセットプレーの一発で決勝進出を決めたので、その試合運びの巧さが評価されるべきだし、クロアチアはペリシッチとマンジュキッチの素晴らしいゴールによって試合を決めた。

ただサッカーを見る上でドリブラー同士のライバル争いが見れた試合と、司令塔同士が本気でやりあった試合の内容も評価したい。

トップレベルの才能が激突するとこうなるんだなという素晴らしい試合を二試合立て続けに見れた事に感銘を受けずにはいられない。

そして願わくばこの二試合を超える、素晴らしいまでの決勝を目撃したい。

「時代を象徴する天才」がわりとマジでヒカキンになってる現実

現代の若者文化を象徴する人間は誰かと考えたときに、ガチでヒカキン説はあると思う。

どの時代も若者のカリスマみたいな人間がいる中で、今のこのリアルタイムの世代、それが誰かと言ったら誰もが納得するのはヒカキンしかいないのではないだろうか。

子供の夢がユーチューバーだと言われる時代に、その日本のネット界で一番有名なのは妥協案としてヒカキンが有力候補だ。

 

確かにいわゆるゆとり世代からさとり世代にかけた中で突出した人材がいないわけではない。

例えば大谷翔平、羽生結弦、藤井聡太は若い世代のアスリート三傑と言っても過言ではない。ただ問題なのが大谷選手にしても羽生選手にしてもどちらかと言えば上の世代から評価されている印象が強く、上の世代が望む「好印象な若者」として受けている側面が強い。

 

唯一、藤井聡太は今の若い世代から「等身大の若者」として若くても大人に対抗できるということに勇気づけられているように思う。

サッカーの場合は三浦知良、中田英寿、本田圭佑と続いた「尖(とん)がったキャラ」の系譜がどこまで続くかだろうか。柴崎岳が長谷部誠の引退によってキャプテンシーを持てるか、そして久保建英が新世代として続けるかにかかっている。

 

女性の場合も人材は豊富で、指原莉乃やきゃりーぱみゅぱみゅは1人のアーティストだけでなく様々なプロデュースに才能を発揮している。芦田愛菜と本田望結のような人材も存在している一方で、この2人は家庭の影響が大きい。

今後、ゆとり世代以上に家庭の影響で人生に大きな違いが出ていきそうだと自分は見ている。

 

アイドルの話で言えば指原莉乃が今回AKB総選挙でランクインした「なこみく」を育成しており、ゆとり世代がさとり世代に対してどれだけノウハウを提供できるか、というよりもさとり世代の事を理解できる世代がかろうじてゆとり世代しかいない程に教育改革や社会の風潮が様変わりしている。

 

ただ安室奈美恵に影響を受けた「アムラー」という人々がいたり、その安室奈美恵を育て上げた小室哲哉が存在していた時代とも異なっている。

 

ジャニーズもジャニー社長が高齢化して、メリー体制に移行してどうなっていくのかというのもあるし、例えば全盛期の木村拓哉や赤西仁が今から現れるかどうかは未知数だ。今後は長寿グループがずっと活躍し、近い世代の固定ファンに支えられながら、むしろ新しい世代を取り込んでいく流れになるのではないか。

更に言えば海外コンテンツとも勝負しなければならない時代に来ており、TWICEのミサモのように日本人が海外のチームで活躍するグローバル時代が来ている。

ジャニーズも、内需路線でいくのかそれとも海外展開を本格的に行うかが問われている過渡期にあるように思う。

 

明治維新のように社会の変革が大きく行われた時期にまでさかのぼることもなく、戦後は左右共に動乱の時代であり例のオウム真理教による騒動と共に幕を閉じた。

そこから始まった21世紀はホリエモンやひろゆきといった新世代の台頭の時代だったかもしれないが、もうホリエモンのような人材が世間を騒がせることはないだろう。

 

芸能界からも尖がった人材は消え、これをまさに「赤西仁無きジャニーズ」と自分は呼んでいる。

仮に赤西仁が今の時代にいたら、そもそもデビューできていないことは容易に想像がつくし人気も出ない。

 

オウムのように組織型の過激な物が消え、ホリエモンのようなお騒がせ者も表舞台からは姿を消し丸くなっている。そしてジャニーズには赤西仁が現れない。

そういった時代の波の結末として、ヒカキンが天下を取っている時代に生きている。

きゃりーぱみゅぱみゅですら尖がっていて、藤田ニコルぐらい計算高くないと今のSNS社会では上手くやっていけない。オリエンタルラジオの中田敦彦がダウンタウン超えるというような雰囲気を出した途端、勢いを無くしていったように、今の時代きゃりーぱみゅぱみゅ程の尖り具合でも受けない。

それよりはいろんな方面に気配りができて、上の世代からも好印象に思われ、世論を巧く操作し、後輩からも慕われる指原莉乃のような人材の方が生き残れる。

アーティスティックな才能と、自分の信念に全振りをするような天才タイプというのは今日日上手くいかず、どちらかというと世渡り能力が重視される。

 

ヒカキンが生き残ったのは結局のところ「子供に見せて健全」という保護者世代から支持を得たことでもあるように思う。ヒカキンの才能というのは何よりも「努力」と「気遣い」であり、どの方面も傷つけないし敵を作らない。他のユーチューバーが何かをするたびにヒカキンの評価が相対的に上がるという構図は見事だ。

ヒカキン本人もボイスパーカッションをしていた時代と比べてスタイルが変化したことを認めているが、ダーウィン理論で言うところの「変化できる物が強い」というのをまさに体現している。

 

要するにヒカキンは凄い、時代に合わせて変化できるし努力量が尋常ではない。

一見中身の無いことをしているように見えて、実は凝ったことをして毎日工夫している。あれほどユーチューバーであることに人生を捧げファンを大切にしている人もいないだろうし、子供とその保護者の身に立って考えることができる。

そしてそもそも「ユーチューバー」という概念が存在すらしていない時代から、いろいろと動画投稿を試して暮らしていた。それがいつの間にか「ヒカキン」という個人であり、ジャンルとコンテンツになった。

もし今の時代に必要な才能があるとするならばこういった裏方能力にあるのかもしれない。

ベルギー代表ベスト4進出おめでとう!ブラジル戦感想

他国の試合でここまで感動したのは久しぶりかもしれない、それぐらいベルギー代表VSブラジル代表の試合が神がかっていた。

 

まだワールドカップの熱狂は終わらない、日本代表が戦いを終えてもまだフェスティバルは続く。

むしろ自分の場合対戦相手のベルギーを一気に好きになって、実質この試合ベルギー代表に憑依して感情移入しながら見ていた。

今回のベルギー代表は勝ち方が派手で面白く、プレー内容も面白い。更にチーム一つとしてまとまっていて、それぞれキャラがたっている上に熱い。

特に今回はクルトワやコンパニ、アルデルヴァイレルト、ムニエなどデイフェンス陣の活躍が本当に素晴らしかった。更にデ・ブルイネ、アザールなどの攻撃力はもはやゲームの領域に達している。

そしてロメウ・ルカクの成長は本当に脅威的で、高速で走る重戦車のような突進力があった。

 

もちろんブラジルの攻撃も強力だったが、後半個人技頼みになるシーンも見受けられた。

実際2-1でベルギーがリードしきれるかどうかは最後まで冷や冷やするものがあり、ベルギーが今度は日本代表と同じパターンに陥る可能性さえあった。

 

ただこの試合で日本代表はむしろ評価を上げた。

このベルギー代表を追いつめ、今大会ベストマッチの一つに挙げられている。この試合でプレミアリーグと日本代表は間接的に価値を上げたと言えるかもしれない。

今後ベルギー代表がさらに勝ち進むほどに、自動的に日本代表も評価を上げていくことになると考えればベルギーと対戦できたことは本当に幸運だった。

「あの時のベルギーは完全ではなかった」と日本人は謙遜するが、世界は間違いなくあの試合を覚えているだろうし、ベルギー代表のドキュメンタリー映像が作られれば間違いなく使われるという美味しいポジションにいる。

日本代表の映像、FIFAの公式映像に今後ずっと使われる!やったぜ。

 

そして今回は映像判定の大会になっている。

もしかしたら映像判定が無ければこの試合ブラジル代表が勝ちあがっていたのではないだろうか。そもそも今回南米勢が早期に敗退していることを考えると、今後南米の代表チームは戦い方を変えていかなければならないだろう。

「フェアプレー」という意味では、今後この部分を重視するチームが強くなっていくだろうし、実際ベルギーは普段プレミアリーグで鍛え上げた真正面からの能力でこの試合を制した。

 

今大会最も強力なディフェンス力と攻撃力、そしてクリーンな戦い方をベルギーは兼ね備えているので是非ともここから勝ち上がってほしい。世間は日本代表が敗退した後、豪雨とオウムの問題で再び陰鬱な日常に戻ろうとしているが、W杯の熱狂はまだ続く。お祭りが終わって悲しいと思うのは非常にもったいないし、ベルギーは本当に見ていておすすめなチームだ。

 

今回のオウム真理教の話題で、「ベスト16に進出した国で死刑制度を維持しているのは日本だけ」と言われているが、別の角度から見ればベルギーは安楽死制度を導入している先進国でもある。

ただ単にサッカーが強くて、チョコレートとワッフルが有名で、歴史的名女優オードリー・ヘップバーンを輩出した国というわけではない。もしワールドカップに絡めて死刑制度を議論したいのであれば、ベルギーが安楽死制度を導入しているという事も語る必要があるように思う。

サッカーを通じて他国の事情を知るという事もW杯の楽しみの一つだ。

ここ最近の日本人は異文化への共感力を失い、海外に対する関心を失っている。

日本人が関係していなければ他人事だというような風潮の中、この試合を見ていた人は世界の奥深さを体験したのではないか。

 

正直な話、自分はむしろこの試合に日本代表が進出しなくてよかったとむしろ安堵した。最初はここに日本代表がいてブラジル代表と対戦するはずだったともの悲しさもあったが、「もしかしたら勝っていた」という想定もできる今がちょうどいい。

それぐらいレベルが高い試合で、これは「逆ミネイロン」をされて1-7にされる可能性さえあった。ベルギーの守備陣だからこそ1失点で抑えられたが、並のチームなら複数失点は確実だと言えるほどブラジルの攻撃力も凄まじかったのは事実だ。

 

今後の4年間は日本代表がこのレベルに到達するにはどうすればいいかということが問われる。そのためにも世界のレベルをまざまざと感じられる試合は貴重で見る価値がある。

 

そしてネイマールはワールドカップでは「かませ」になる運命なのだろうか。

日本代表としては何度もシミュレーション行為をされ、高い技術を見せつけられてきた。ある意味ベルギー代表が今回ネイマールに引導を渡してくれたことは、日本のサッカーファンとして胸が救われる思いがあった。もちろん日本代表が直接ネイマールを止められるレベルになることを願いたいが、まずはベルギーがそのやり方を示してくれた。

 

今頃ネイマールをはじめ、ブラジル代表は「ベルギー半端ないって」とロッカールームで叫んでいるに違いない。

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平成最後の夏がオウム真理教で終わる激動

オウム真理教一色の報道に対して「ニコニコ動画の例の動画懐かしい」だとか「政治利用されている」「豪雨や水道民営化の報道をしてほしい」「とにかく怖い」など様々な意見がある。

ただ自分はこれは歴史的な出来事として、平成の終わりの今だからこそ語るべき時期に来たのかなと考えている。

ある意味平成史上最大の厨二病的な事件としてこのオウム真理教の騒動は語られるべきだろう。

 

怖いから報道しないでほしいで片づけてはいけないというか、逆に言えばそれだけ大きな激動とも言える出来事がここ最近無かった事で、そういった感覚は20世紀の遺物として消えていたのかもしれない。

 

いわば「20世紀の終わり」を終わりを象徴する一連のオウム真理教関連の出来事を、「平成の終わり」にもう一度考え直させられることになっているとも言える。

先日の歌丸師匠の件だけでなく、SMAP解散や、こち亀終了や笑っていいともの終わり、など平成の終わりを感じさせることが相次いでいる。本当に平成は終わっていくのかと。20世紀型の出来事や文化、価値観だけでなく、コンテンツや経済システムなども徐々に崩壊し、GDPで中国に追い抜かれてからもう久しい。

 

まだ自分は平成の出来事としてオウム真理教や酒鬼薔薇といった世紀末的な物が過去にあったという事を知っている世代だが、もはやそのことを知らず今回初めて知ったという世代も現れてきている。

俗にさとり世代と呼ばれ、物心ついたときから日本が停滞していることが普通で、もはや「20世紀型文化の残り香」のようなものも物心つく以前の出来事になっている。

例えばジャニーズで言えば『青春アミーゴ』が世間的に流行っていた頃がその最後かもしれない。そして3.11の事があり、日本のGDPも中国に抜かれている状態が普通の日常の世界に生きている。

 

平成最後の夏と言われるが、自分にとってそれは今回のロシアワールドカップが象徴する出来事の一つだ。そもそも考えても見れば、日本のワールドカップ出場自体が1998年のフランス大会からなので、日本人にとっては平成のイベントということになる。

「歴史において平成はそれほど語られない」と言われるが、よくよく考えてみれば様々なことがあり平成の始まりはまさにオウムや酒鬼薔薇といった世紀末的な激動から始まる。

 

そして20世紀の始まりは2001年の9.11から大きな動きを見せ始める。

そこから段々と20世紀や昭和の残り香のような物が消えていくことを考えると、「平成」という時代はこれからの新時代に移行する前の過渡期だったと言えるのではないだろいうか。

この30年はいわば、昭和と20世紀が徐々に終わりゆき、変化していく期間だった。

 

もう2010年代に入り激動のような起きなくなりつつあった。

しかし東京五輪が2020年に控え、それは当然ながら新たな元号の時代の初期に起きる出来事ということになる。

一体これからどういった時代が始まっていくのだろうか。

その新時代について考えるためにも、このオウム真理教について今考え直すことは必要な事のように思う。

怖いから見たくないという心理も理解できるし、もっと生活のことについて報道してほしいという考え方も大いに理解できる。

ただこの一連の出来事についてうやむやにしたり、何もなかった知らない過去のように考えることは新しい時代にとって良いことだとは言えない。

 

まるで歴史の必然であるかのように、平成最後の夏に平成の物事が終わろうとしつつある。そしてその終わりについてどう考えるかが問われている気がする。

20世紀の出来事ではあるが、同時にそれは平成の出来事でもありその余波は続いた。

「昔オタクが多かったころの秋葉原には、オウム真理教の信徒たちが作ったパソコンが売られてた」とか「オウム真理教が選挙運動を堂々としてテレビも出ていた」とか、そういう時代の雰囲気から知るだけでも理解度は違ってくる。

とにかく今だからこそオウムの歴史的意味というか出来事の重さを問われているのではないかと思う。