これはやっぱり最初に将棋を覚えてしまってることに原因があると思う。
将棋をやってる人はたいていチェスの駒の動きや持ち駒制度がない事への違和感を唱える
逆に将棋より先にチェスを覚えた人も将棋に対して同じことを思う。
言語と同じで、最初に覚えたものが全て
次に覚えたものに対しては違和感というか自然じゃない感情がある。
自分自身将棋より先にチェスを覚えたのでどうしても将棋に違和感がある。
なんてそう動くの?という違和感。
「なんか俺最初に英語覚えちゃったから日本語に違和感あるんだよね」っていう嫌味な言い方になってしまうが
将棋がいまいちしっくりこない。
たとえば金と銀、持ち駒投入の不可解さは英語話者がひらがな漢字カタカナを使い分けることとか敬語の細かさに戸惑うのと似ているのかもしれない。
そしてそれは将棋を先に覚えた人がチェスをやったときも同じ。
例えばほとんどの日本人が英語に違和感を感じるのと同じで。
実際将棋ファンのほとんど持ち駒がない事への違和感を唱える。
ないことが当たりまえの人からすれば逆にあることが不可解で、あることが当たり前の人からすればないことが不可解
例えば英語などにある冠詞の概念がない日本語ネイティブには完全には冠詞が理解しきれないのと同じ。
女性名詞や男性名詞なども正直意味不明なのと同じ。なくてもいいじゃん?と思ってしまうがあることが当たり前な人からすればないのはおかしい!となる。
これはチェスと将棋どっちの動きが整合性がとれているのかという問題ではなく言語と同じで最初に覚えた物にどうしても自然な感情を持つという問題
英語と日本語どちらが言語として、とかいう問題ではなく
英語を先に覚えた人にとっては英語が自然に感じるし日本語を先に覚えた人にとっては日本語が自然に感じる。
あとはチェスに対する認識の問題
難しいというかなんか別世界のものというイメージがある。
実は将棋よりシンプルで覚えやすい。
普通に誰でも覚えられるし、誰でもやれるものがチェス
ということで将棋が根付いてる日本でチェスが流行ることはかなり難しい
なんでわざわざチェスやるの?とかチェスの動きはおかしい、みたいな意見ばかりになるのは明白でなかなか難しい問題だと思う。
既に将棋がある世界にチェスを持ち込むにはかなり抵抗がある。
日本語があるのにわざわざ英語を話す必要がないだろ?という感情に似ているのかもしれない。
だから流行らせるには将棋をやったことがない層、将棋に興味がない層に最初にチェスを覚えてもらうことが大事。
そしてそれしかないと思う。
将棋はなんか難しいし古いイメージがあると思ってる層にチェスはファッショナブルだと思ってもらえればいいと思う。
スタイリッシュに頭脳を鍛えられる競技としてチェスはいい!みたいになれば流行ると思うし自分自身そんな動機で始めた。
ブラックコーヒーを飲むとか、洋楽を聞き始めるとかそんな中二病と同じ動機で始めた。
ただチェスが流行るにはそういう土壌に入っていくしか可能性がないと思う。