日本の学生スポーツや部活動は「大人が考える理想の若者像」を投影する場になっている。
例えば夏の風物詩ともいえる甲子園はまさにその典型例だろう。
炎天下でボールを投げるピッチャーを賛美するのはもはや日本の野球文化における伝統であり、数年前にあったハンカチ王子フィーバーはその象徴だ。彼らはあだち充の『タッチ』のような青春像を未だに求めている。
そしてその日本の学生スポーツにおける象徴は他の競技にも求められ、そこに甲子園要素が存在しない時には下に見られる傾向がある。
現在問題となっているもしドラ作者の「炎天下で投げ続ける投手を見ると心が浄化されるが、サッカーにはそのような存在がいない」という発言はその典型だと言える。
あとから釈明しているものの、やはりサッカーを引合いに出し野球の優位性を説いているように感じざるを得ない。
なぜわざわざサッカーが引き合いにだされたかは理解に苦しむ。
サッカー部や他の部活では心が浄化されないのだろうか。
野球であっても投手以外は主人公ではないのだろうか。
サッカー部に限らず他の競技者や、投手以外の選手も頑張っているはずだがどうやら心は浄化されず"感動"しないらしい。共感できないことは本人の自由だが、わざわざ引き合いに出す必要はなかったのではないか。
この発言を聞いたサッカー部やピッチャー以外の野球部はどう思うだろうか。
彼らの努力を否定する権利などないはずだ。
その配慮が欠けていたにも関わらず苦しい言い訳をしているもしドラ作者の姿勢はまさに典型的な「大人が考える理想の若者像」を強制して押し付ける似非スポーツファンそのものだ。
日本という国はこういった似非スポーツファンが非常に多い。
彼らが興味ある事は競技内容ではなく、例えば野球ならば炎天下で懸命に頑張っている高校球児の姿でしかない。
甲子園に盛り上がる人々の半数は野球という競技にそれほど関心は無く、ただそこにある理想の青春像がコンテンツとなっている。
日本人は競技内容そのものにそれほど興味がなく、スポーツから発生する感動的なストーリーや純粋な爽やかさなどを強く求める。
それゆえに日本人が考えるスポーツマンシップに相応しくない選手は総叩きに合う。
またサッカーは例外として基本的に日本人選手が関わっている試合以外は他人事でしかなく、スポーツを盛り上げる文化は成熟していない。
共感できない外国人選手などどうでもよく、日本が負ければ決勝であっても録画放送で済まされる。
例えば元日の駅伝を見てもストーリー仕立てにしやすいエピソードばかりが話される。スポーツの競技内容そのものではなく、物語として"共感"しやすいかどうかが重視される。
野球のピッチャーを美化することも、ただ単に物語を想像しやすいからという理由に過ぎないのだ。日本のスポーツ観戦はこういった情緒性が重視される。
野球部における実質的な坊主強制も未だに変化が見られないのは、「理想の青春像」として懸命に野球だけを一生懸命頑張る姿を見出したいからでしかない。
人口3500万の高齢者層が自分の青春時代を坊主の球児に重ねたいだけであり、「チャラチャラせずスポーツを真面目に頑張っている爽やかな若者」は最近の若者とは違う、「まだ日本にもこんな純粋な若者がいる」と思いたいだけなのだ。
学生競技者に理想の青春像や、スポーツ選手に理想的なスポーツマンシップを過度に求める時代はそろそろ終わりにしても良いのではないだろうか。
学生は大人が考える青春像としての役割を果たすためにスポーツをしているわけではないはずだ。
「最近の野球部は電車の中でスマホばかりいじって野球の話をしない」という記事を読んだことがあるが、スマホをいじっていたら大人が考える理想の青春部活動をやっていないのだろうか。
髪を伸ばしていたら野球部のように真面目にスポーツをやっていないのだろうか。
坊主にすればそれだけで真面目なのだろうか。
またもしドラ作者は「ピッチャーが祭りにおける犠牲の役割を担っている」とも説明しているが、いい加減日本社会特有の「自己犠牲美化」も変えていくべきなのかもしれない。
スポーツに限らず日常の生活においても無言で犠牲が強制されることを誰もが経験したことは無いだろうか。
野球漫画の『メジャー』でも主人公がここで辞退したら後悔するから投げ続けるというシーンがあったが、このように日本で犠牲は最も美しい行為だとされている。
村のために生贄になることや聖戦のために命を捧げることは美しいという考えで、炎天下でMLBが問題視するほどの投球を行うピッチャーを美化しているのであれば自分は賛同できない。
そもそもサッカーにおいても自己犠牲精神をいとわずチームのために労を惜しまず走る選手はいくらでもいるのだが、そういった努力は彼らには理解されないのだろうか。結局のところスポーツをよく理解していない人間が曖昧なイメージで断定しているだけでしかない。
そういう人間が「炎天下で限度を超えた数のボールを投げる球児は美しい」と礼賛している。
日本では象徴的でわかりやすい事しか共感されないようだ。
若者は大人が考える理想的青春像を満たすために犠牲になる道具ではないはずだ。
こういった大人が考える若者像を強制する人々が減らない限り今度も歪んだ構造は変わっていかないだろう。
昭和の時代まで「スポーツの時は水を飲んではいけない」という風潮があったというのはよく言われることだが、前時代的な価値観が廃止されていないという意味ではまだ日本のスポーツ界は変わっていない。
炎天下で投げることが美しい、坊主でスポーツをしていると真面目扱いされる、こういった感情的な迷信が今も多く存在する。
学生のスポーツ大会に盛り上がる文化自体は素晴らしいが、そこに歪んだ目的がある事もまた事実ではある。
大人が考える青春ストーリーを提供できる大会しか盛り上がらず、理解や共感の出来ない競技は排除される風潮はもう終わりにしても良いのではないだろうか。