elken’s blog

ジャニーズとサッカーを中心にあらゆることを評論するブログ

ジャニーズ問題は天皇と日本人の関係性の縮図である

自分はこの度のジャニーズの性加害騒動について終始、ある違和感を感じた。

結局のところ組織に反抗するものは長年、口を封じられ、最終的に非を認める時に犠牲となるのは末端の構成員だと。

 

「天皇の戦争責任」が追求されなかったと言えば左翼のような言いぶんになってしまうがジャニー喜多川という男は断罪されなかった。

そして東山紀之、木村拓哉、櫻井翔、このような「高等幹部」らは責任を取らず終始言い逃れで自らの保身に走った。

 

その結果が、続々とCMを打ち切られる若手の社員たちだ。

上層部の連中がわかりやすい示しをつけてジャニーズという名前も改めて未来ある後輩を守るべき時にそうはしなかった。

 

実際のところ、自分はBBCによる報道の前にもジャニー喜多川が性的搾取をしているという噂レベルのことは知っていながら「ジャニーさん」として半ばジャニーズ帝国の皇帝のように崇めていた。まるで絶対君主制の体育会系的組織がかっこいいものであるように。そしてそう思わせるように度々、ジャニーズ事務所内の厳しい伝統や慣習を面白おかしく話してきた当事者もまたジャニタレであった。

 

それは戦前の天皇に忠誠を誓う旧日本軍における身内の従軍体験に近いような興味をそそられる話のように、日本国民が聞いていたのである。ジャニオタ各個人はこの事実を自分の体験として無視はできなうだろう。その話を自分のお気に入りの推し担当メンバーから聞いて笑っていた自分をなかったことには出来ない。

 

それは大日本帝国が敗戦後、自分が日本の戦争や天皇制ファシズムを無意識に支持する一人であったことを否定しきれない老人たちと同じである。確かに我々ジャニオタはそういった体制の支持層になっていた、これを認めなければならない。知っていたはずだ。

 

これはドイツの敗戦ドキュメントでも使われるフレーズなのだが、当時のドイツ国民はホロコーストを知っていた。それと同じだ。結果的にイギリスが暴いた点も似ている。また、過激派ジャニオタ達が裏切り者を断罪するさまも極右のようである。ジャニーさんは優しい人だった、と。個人崇拝がここまで民主主義社会で成立したことはあっただろうか。

 

ジャニーさんという絶対的な君主、ジャニーズ事務所という強権の下で支配権益を他のエンターテインメント組織集団と争い、またジャニーズ内部での派閥争いをするという戦前の大日本帝国や旧日本軍的構造に我々は酔っていたのかもしれない。