高校サッカー選手権はなぜ盛り上がらないのか
高校サッカーのシーズンになるとまず思うのが高校サッカーの盛り上がりがいまいちだという事。
高校サッカーはもう少し注目されても良いのではないだろうか
普通のメディアはもちろん、社会的にも、そしてネット上の話題でも盛り上がらない。
それどころかサッカーファンが多くいるようなサイトでもそれほど盛り上がっていない。
甲子園について熱狂的に語る文化があることに対して高校サッカーについて語る文化はそれほど盛り上がりを見せていない。
(甲子園という化け物コンテンツと比べるとすべてが小さく見えるのは仕方ないが)
夏はポケモン映画!に対して冬は妖怪ウォッチくらいの差である。
夏はポケモン映画というイメージは浸透しているが、冬妖怪と言われても微妙な感覚。
とはいえ今回の冬の妖怪映画はスターウォーズ越えしているレベルなのでかなり盛り上がっているが。
夏は野球に対して冬はサッカー
これくらいの文化としてお茶の間に根付いてほしいというのが高校サッカーファン関係者の願いだろう。
夏あれだけ学生スポーツでもりあがるのだから、冬にも学生スポーツで盛り上がったら面白くなると思う。
現状冬といえば駅伝だけど、駅伝は1日で終わってしまう。
高校サッカーは年末から11日までずっとあるわけだから、この期間を甲子園期間中並に盛り上がるようになったら楽しいはず。
こういう盛り上がるイベント期間があるとワクワクする。
その根底にあるのは自分の地元、自分の都道府県を応援するという気持ちだろう。
高校サッカーのレベル云々よりも地元応援という原点に立ち帰るべきなのかもしれない。
皆なんだかんだいって地元や故郷への愛着があるのでそれで冬も盛り上がるというのは楽しいことだと思う。
甲子園のような地元応援の盛り上がりを冬も楽しめる、そういうコンテンツに高校サッカーがなっていけばよいのではないかと思う。
寒い冬だからこそ地元を応援して盛り上がって熱くなれば楽しいはずだと思う
しかし現状は夏季五輪が滅茶苦茶盛り上がって、冬季五輪が盛り上がらないような感じで高校サッカーが世間から忘れ去られている。
サッカー部の部員が増えるのと逆行するように世間での高校サッカー選手権の扱いは小さくなって言っている。未だに甲子園を優遇して報道しサッカーはスルーする、それが日本のマスコミだ。高校生にとっての高校サッカー人気はあがっているのに、世間での高校サッカー人気は下がっている
実際の冬季五輪はフィギュアを中心に盛り上がる。
高校サッカーもそれくらいの魅力があるのではないだろうか。代表戦やワールドカップが盛り上がるのだからお茶の間とサッカーの相性は悪くはないはずだ。
高校サッカーがもっとビッグイベントになれば名選手ももっと誕生するはずだと思う。
ユースの時代になったとはいえ、まだ高校サッカー出身者は強い。
その理不尽な環境に耐えたメンタルが世界の舞台で通用するというのはよく言われている。部活制度特有の環境に耐えることで根性が身につくということは一つの事実であるようにも思う。
高校サッカー選手かユース選手という論争は今も根強い。
最近の傾向としてユースは発展して強くなってユース選手の占める割合がどんどん伸びてきているが、やっぱり高校サッカー出身者の強さも必要という感じになっている。
高校サッカーがかつてのような人気を取り戻し(昔は今よりもっと人気だったらしい)、なおかつ冬の甲子園的ポジションとして定着すれば、もっとすごい選手が育つのではないだろうか。
高校サッカーの盛り上がりは日本代表の為にもなる。
高校サッカーで育った選手がプロに行って海外で活躍してそして日本代表にも入ってワールドカップという舞台で世界と戦う
これほど見ていて楽しいものはないはずだ。
なぜ盛り上がらないのかという事については一試合がそこまで長くないのでとりあえずテレビをつけたらやっているという状況が起きないのが1つ目の理由
ワールドカップ期間中のようにメディアで盛り上がることもないし、試合数もそれほど多くない。
そして1番の理由はやはり坊主
甲子園人気は地元応援以外にも「最近の子が失った理想の熱い青春像」という物がある。
かつて坊主強制だった時代の世代にとっては熱い時期に今時の子が坊主にして頑張ってスポーツをやっているという事が美しく見える。
「最近の子はダメだけど、野球部だけは頑張っている」というイメージである。
遊ばずひたむきに野球だけに頑張っているという理想の青春像
それに対して高校サッカーはあくまで「チャラい」
どうしても甲子園と比べると「髪型いじりながらスポーツをやっている、本気じゃない、真面目じゃない」と思われてしまう。あとは高校サッカー部員のイメージの悪さ。
正直サッカー部に対して自分自身いいイメージを持っているかといえばそれは嘘になる。サッカーは好きだが、サッカー部はそれほど好きじゃない。
ただそれは野球部も同じ。サッカーだけが悪くて野球はしっかりしてるなんてことがあるはずがない。
坊主にしているからよくみられるけど、実際は髪いじれない代わりに眉毛いじるし不祥事が多いのを見てもわかるように野球部にもそういう奴はいるしサッカー部にも真面目な子はちゃんといる。
イメージとか偏見の問題。サッカー部は偏見で見られ野球は素晴らしい青春の洋に美化される、これが日本のメディアの体質のように思う。
どっちが悪いか良いかという問題ではなく、断片的なイメージでどちらかを美化したりどちらかを悪く言ったりするのはよくないと思っている。
世の中でもパッと見真面目に見える人や頑張っているように見える人の方が評価されて、なんとなく雰囲気が悪く見える方は本当は頑張っているのに評価されなかったりする。
坊主にしている方が真面目に部活やっているように見えるし、髪延ばしていじっていると真面目に部活やっていないように思われてしまう。
こういう表面的なことでパッと見判断し本質を見ようとしない文化が日本の生産性を落としているのではないだろうか!?(謎の経済評論家)
人は見た目が9割、面接なんかできっちりとしていることがよくみられる。
受験や就職シーズンに散々こう聞かされた人は多いはずだ。だから面接の写真では皆同じスーツ、同じ表情になる。形は大事、そこは否定しないし必要だと思う。
だけど形ばかり見過ぎている、そこばかり重視する。それが日本社会の病理ではないだろうか
本当に頑張っているならそれがわかりやすい形であらわれるはずだという神話
頑張っていなくてもがんばっているように見せることは可能だし、頑張っているのに頑張っていないように見られることもある。
と、甲子園と高校サッカーの比較から社会批評にまでいく曲芸に展開させてしまったが自分が世の中の人に見て欲しいのは「高校サッカー部員もこの寒い冬に、年末年始という大切な時期にがんばっている」という事である。
別に自分が高校サッカー部だったからというわけじゃない。(むしろ自分は生粋の帰宅部)
でも彼らがこの寒い冬に高校サッカー選手権という舞台を目指してずっと頑張ってきたことは確かである。それをどうか日本のメディアはもっと認めて報道してほしい。
寒い冬の時期、暗くなる時間に外で冷たい風や冷たい雨、雪にさらされながら太ももにボールが直撃するようなことを耐えてきてたどり着いた舞台が選手権
そこで戦う選手たちの雄姿こそ、まさに青春なのではないだろうか。
そして本題とは別のことだが高校サッカーの名前ってかっこいいと改めて思った。
必ずしもサッカーだけで有名な高校ではないが、自分の中ではサッカーとしてのイメージが強かったり、サッカーを通して知った高校の名前がいくつもある。
例えば「青森山田」は言葉としての単語そのものはシンプルでかっこいいわけじゃないが、この組み合わせと実際の強よさ、そして重みがあってかっこよく聞こえる。
「山田」言葉だけなら日本人にありがちな名前である。Hey! Say! JUMPの山田涼介効果で山田がかっこよく聞こえるのと同じで、青森山田の山田はなぜかかっこよく聞こえる。
本田圭佑がいた星稜も勿論かっこいい。星稜高校と聞くと高校サッカーファンも甲子園ファンもワクワクするはずだ。
そういった高校サッカー部の漢字の名前がJリーグのわけのわからない横文字よりもかっこいいと思う人は多いのではないだろうか。(Jリーグのチーム名に関しては自分の主観ではなく、既にいろんな人が言っている。)
先ほどの話に通じることもあるがやはりどうしても本質よりもこういう名前という表面的な部分のほうが世間の目にはつく。
中国サッカーリーグの漢字だけのチームを日本人はかっこ悪いというけど、高校サッカーみてると漢字だけってむしろかっこいいなと感じる。
中国サッカーは中国風の漢字だから日本人に合わないけど、日本のチームも日本風の漢字にして伝統や重みが出てくればかなりかっこいいのではないかと思う。
アメリカの影響受け過ぎた日本のプロスポーツチーム名の文化よりも、古くからある高校の名前の方がかっこいい。
ヨーロッパのサッカークラブがかっこいいのもその国に元からある現地の伝統的な言葉で作られているからだと思う。
レアル・マドリードのレアルはスペイン語。決して英語の「リアル」ではない。
マンチェスター・ユナイテッドやマンチェスター・シティも無理やり日本語に例えるならば「埼玉連合」「埼玉市街」「静岡合同」「静岡都市」みたいなものだし、バイエルン・ミュンヘンも「関西大阪」
レアル・マドリードも「皇室東京」「帝京」「帝都東京」くらいの意味
どこの国もサッカークラブという大事な名前に自国の単語以外を使うことはない
(歴史的な背景からアスレティック・ビルバオのようにアトレティコというスペイン語ではなくアスレティックという英語をつかうケースやACミランのようにミラノというイタリア語ではなくミランという英語を残しているケースはあるが)
シンプルな言葉でも現地の言葉で長くやっていればかっこよく聞こえてくる。
それは青森山田とか鹿児島城西、前橋育英の例を見てもわかる。
サッカーに限らずなんでも横文字にすることが増えたが、福沢諭吉などが作った明治時代の漢字の造語センスを今だからこそ持ってきてチーム名を考えるのもありなんじゃないかと思う。
最後に高校サッカーで面白かった記事を1つ
この中で一番大事な部分はここだと思う
>とかく日本人の場合、小さな選手には許せることを、大きな選手には許さない傾向がある。それは、わたし自身も例外ではない。
>大柄な選手が放つヘディングシュートより、小柄な選手が見せるドリブルシュートを重んじてしまう。小柄な選手が頭で点を決められないことは許せても、大柄な選手が巧みな足技を披露できないことは許せない。
金子達仁はたまにいいことを言う。
南アフリカワールドカップ前の評論で評価を下げたイメージが強いが、鋭いことを言う時もある。
どうしても小さい子ができないのは良いけど、大きな子ができないのは駄目と考えがち
大きいんだからできて当たり前、大きいんだから頑張ろうね、という文化がある。
小さい子は加点方式で評価される。できたらすごい!できない部分があってもいい
一方大きい子は減点方式で評価される。できてあたりまえ、できない部分があったら駄目。
小さい子はできる事に注目してもらえる
大きい子はできないことに注目がいく
そして自分自身サッカーを見るときこういう目線で見てしまっている。
正直な話フィジカルよりの選手よりもテクニックのある小柄な選手の方が好きだ。
ロナウドやレヴァンドフスキ、ドログバよりもメッシ、アグエロ、イニエスタ、チャビ、モドリッチ、ダビド・シルバetc
大きい選手は自分の得意なことでがんばっている。
下手だから体で勝負するしかない。
でもこれをどうしても「どうせ体で勝負できるから技術を捨ててきた」と考えてしまう
本当は「下手だから体張って頑張るしかなかった」だとしても。
ここら辺の問題が改善されていけばもう少し大型の選手が日本で育ってくると思う。