elken’s blog

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メッシって人間としての魅力はそこまで無いよな

リオネル・メッシ、間違いなくサッカーの歴史に名を残す選手であり、神の領域に近い天才だと言っても過言ではない。

メッシのプレーを見れば誰もが納得するだろう、彼の才能と実力に疑いの余地がない事に。

そしてそれは世界最優秀選手賞バロンドールの獲得数、そしてFCバルセロナにおける最多ゴール数、チームとしての実績にも表れている。

 

もはや歴史上のあらゆる名選手を超えたと評する声も多く、自分自身間違いなくリオネル・メッシがサッカー史上最高の天才だと考えている。

プレースタイルについても魅力的であり、メッシを見ていたらこれがサッカーの神髄だと感じさせられる。

人々を魅了するスタイルでありながら実績に関しても疑いようがない、プレーにおいては見ていて楽しく、重要局面で活躍する勝負強さも持ち合わせている。バルセロナの試合を見ていればメッシに救われたシーンを何度も目撃したことがあるだろう。

メッシ

しかしながらメッシの私生活や人間性は平凡の一言に尽きる。

「世界一サッカーが上手い凡人」という表現が的確なほどに、さして特徴もないのがこのアルゼンチン人プレイヤーだ。正直なところ世界一競技人口が多くどの国でも行われているようなスポーツの頂点を極めた人のようには見えない。

 

サッカーに限らず一つのスポーツを極め高みにたどりついた選手というのは人間的にも絶対的な特徴や個性を兼ね備えていることが多い。破天荒なエピソード、問題児的な要素、カリスマ性を持つ選手もいれば、慈善活動を惜しまず人間性で評価されている選手もいる。ファッションアイコンやスターのような分野にも進出する光景はスポーツの世界においてよく見られることだ。

 

しかしながらリオネル・メッシに関してはそういった特徴が無く、性格や人間性は良くも悪くもなく、華やかな見た目をしているというわけでもなければ本人自体ファッションには無頓着だ。

最近までバルセロナで同僚だったネイマールに影響されて大人デビューともとれるようなタトゥーや金髪などにもチャレンジしていたが結局上手くはまらず最近ではまた落ち着きつつある。

タトゥーを増やしたり消したり、頑張って髪型を決めようとしもそれほど上手くはいかない。

バスケットボール界の伝説マイケル・ジョーダンのようにそのスポーツを代表するカリスマ性があるわけでもなく、同郷の偉大な先駆者ディエゴ・マラドーナのように破天荒な問題児というわけでもない。

 

かといってバルセロナのアンドレス・イニエスタと同じように人格者というわけでもなく、脱税やチームメイトへの公開説教を行うなど優等生というイメージも既に崩れている。

物凄く人間的に洗練されているというわけでもなければ、破天荒な問題児として世間を騒がせるようなタイプでもない。

ある意味そういった普通の人間性をしているというところがメッシの魅力なのかもしれない。サッカー以外は極めて凡庸であり等身大の人間味に溢れている。

 

サッカーという競技が無ければ一般的なアルゼンチン市民として「リオネル・メッシさん」として日常に溶け込んでいただろう。

クリスティアーノ・ロナウドやネイマールはファッションスターや芸能人として活躍し、マリオ・バロテッリやズラタン・イブラヒモビッチ、アントニオ・カッサーノのような悪童はサッカーが無ければ今頃収監されていたかもしれない。

 

自分はサッカー選手としてはレオ・メッシを歴史上最高の才能を持つ選手でありもはや比較対象がいないとさえ考えておりプレースタイルにも魅せられている。サッカーをしているときのメッシはまさに現人神という言葉が相応しいレベルにあるが、ピッチを去れば一般的なアルゼンチン市民に戻る。

一方でピッチ外でも魅力にあふれているのがシャビ・エルナンデス、イブラヒモビッチ、ルイス・スアレスのような存在だろう。

正直なところサッカーではメッシの方が好きだが、一人の人間としてはクリスティアーノ・ロナウドのほうに魅力を感じることも事実だ。

「キャラが立っている」という言葉が抽象的だが、プライベートのエピソードや名言の有無などに関してはロナウドに分があるだろう。

心に響く名言や聖人エピソードがあるわけでもなく、突出したキャラクター性を持っているわけでもない。

どこか人間的に問題があるような選手の方が自分は好きで、シャビのレアル・マドリードに対する批判的な発言、イブラヒモビッチやマラドーナの悪童エピソードなどにも魅力を感じる。

 

一方でそんなリオネル・メッシをサッカー選手として以上に評価している著名人がいる。

小柳ルミ子、熱心なバルセロニスタと知られ、彼女の「メッシ愛」はもはや偏愛の域に達している。

「メッシの人間性は素晴らしい」とまで断言しており、人間として敬愛していると言っても過言ではない。

 

同じ"バルセロナ教"の信徒として自分と小柳ルミ子の違いを上げるとするならば、それはメッシの人間性に対する認識に行き着く。

リオネル・メッシの普段の私生活や言動に自分は一切興味を持っていないが、"ルミ姉さん"は本当にメッシを人間として尊敬しているという印象を抱く。

小柳ルミ子のメッシ愛はもはや同じバルセロナファンからしても異常な領域にあり、非常に楽しそうでもあるのであのスタイルはむしろ生涯続けて欲しいとさえ思う。

 

似たようなことでいえば自分の場合「シャビ愛」はルミ姉のメッシ愛に匹敵するものがあるかもしれない。カタルーニャ語の発音では厳密には「チャビ」だが、便宜上シャビに統一したい。

人間としてはそんなシャビ・エルナンデスのほうに自分は魅力を感じる。こういったところもバルセロナを好きな人々の間で議論が分かれて面白い部分でもある。

そう考えたときメッシのそういった平凡さは女性の母性本能のようなものをくすぐるところがあるのかもしれない。

リオネル・メッシ

男性ファンがメッシを語る場合はその繊細なボールタッチや創造性から繰り出されるドリブル突破力や一瞬を打開するアイデア、そしてボディバランスアジリティの高さと言ったサッカーに最適なフィジカル要素、その決定力やシュート技術に目が行き、普段の平凡な姿からは想像もできない能力に惹かれていることが多い。

逆に男性のサッカーファンでメッシの私生活や人間性を面白いと思っている人はあまり聞いたことが無い。

アスリートというのはそういったプレー面以外の魅力が語られることで新たな人気を獲得していくことが多いが、メッシに関してはそういう部分が見当たらないことも日本での知名度がそれほど高くない要因かもしれない。

 

少し前のデビッド・ベッカムやロナウジーニョのようなスター性や話題性はメッシについてそれほど多くは無い。もしかしたら日本でサッカーに日ごろ関心が無い人はメッシをベッカムやロナウジーニョと同等レベルのように認識しているのではないだろうか。

日本の番組にメッシが出演したときの扱いも、ロナウジーニョやベッカムが日本のバラティに出演したり来日したりしたときに比べて地味な印象を感じずにはいられない。

メッシがロナウジーニョやベッカムとは比較にすらならない程凄いという事にもしかしたら衝撃を受ける人がいても不思議ではない。

 

つまり何が言いたいかというとやはり客観的に見てリオネル・メッシは凄そうな選手に見えないことであり、マイケル・ジョーダンのようにそのスポーツの枠組みを超えたような人気も獲得しにくいという構造がある。

おそらくメッシが好きな人はほぼ全員サッカーという競技やバルセロナ、アルゼンチン代表が好きな人でありサッカー面以外を評価している小柳ルミ子のようなファン層はレアだと言える。

逆に言えばスポーツ面以外の人気を担ってくれているのはクリスティアーノ・ロナウドであり、サッカーを超えたアイコンのような役割を果たそうともしている。

 

かつて日本のお笑い芸人が「引退後何をするのか」とインタビューしたことがあったがC.ロナウドがホテル経営やファッションブランドの運営に取り組むのであれば、メッシはアントネッラとアルゼンチンで静かな余生を過ごしていそうでもあるしその姿が似合う。

監督をするようなタイプでもなければ引退後でも通用するスター性があるわけでもない。マラドーナやペレのように引退後に母国の代表に苦言を呈するようなキャラでもなければ、バルサフロントの一員として活躍していくイメージも沸かない。

そう考えると引退後最も過小評価される選手になってもおかしくはないだろう。バルセロナの試合の過去映像を見た人にしか凄さがわからないような選手として数十年後ひっそりと語り継がれているかもしれない。

 

後世におけるメッシの評価というのは非常に気になる部分であり、その意味で言えばまさにワールドカップの獲得の有無に関わってくるかもしれない。

おそらくヨハン・クライフが決勝で"美しく"散った1974年ワールドカップのような語られ方を2014年のワールドカップについてはされないだろう。

トータルフットボールとして革新をもたらしたオランダ代表は西ドイツ代表に敗れ去ったが、結果としてはオレンジ軍団のほうが語り継がれている。

その一方で2014年の決勝はドイツ代表のチームとしての完成度が光りアルゼンチン代表を語る人は多くない。

 

「メッシ以上の選手は今後現れない」と自分は考えているが、そう考えたとき非常に過小評価されるリスクは存在するのも事実だ。

メッシの活躍をリアルタイムで見ている我々ができることは何なのかと言えばやはりそのプレー面について語り継ぐ事だろう。

これほどの選手がプレー面以外や引退後の生活が地味だからという理由だけで語られなくなるというのはサッカー史において非常にもったいない事のように思う。