elken’s blog

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ジローナのレアル・マドリード撃破とカタルーニャ独立問題

カタルーニャ地方に本拠地を置くジローナがレアル・マドリードを逆転によって撃破した。

最近楽しいニュースと言えば自分にとってはレアル・マドリードが負けたという知らせを聞くことになっている。

「あの白い奴らがまたしくじったか」と聞くとその日は幸福でいられる。

 

そしてこの小規模なクラブが世界王者の白い巨人エルブランコを打ち破ったことは大きな衝撃を世界に与えていて日本の大手新聞社にも記事が上がっている。

現在国際ニュースの話題をさらっているカタルーニャ独立問題に関連付けてのことだ。サッカーは必ずしもスポーツの問題にとどまらない国や地域も存在する。

 

カタルーニャがスペイン中央政府によって陥落してその支配下にはいった1714年に合わせて前半17分14秒に「インディペンデンシア」と独立コールをすることはFCバルセロナにおいて恒例行事となっているが、ジローナでもこれが行われているというのは衝撃だった。

カタルーニャにあるエスパニョールはまた色合いが違っていて、民族主義的な側面はさほど打ち出されていないがジローナはFCバルセロナ寄りのカタルーニャ・ナショナリズムのクラブだと言えるのだろうか。

 

カタルーニャ民族主義はいわばユーゴスラビアがセルビア人とクロアチア人やボスニア人は一緒にいれないとか、満州国の五族協和は机上の空論でしかないとか、そういう問題と似ている。

あくまで「Catalonia is not Spain」であって急進派はカタランは独自の民族だと主張する。

こういう時ほど声の大きい意見の方がメジャーになりがちな傾向は世界共通で、逆に個人的に日本で話したことのあるバルセロナからのツーリストは自国がスペインだという事に抵抗を持っていなかった印象を受ける。

 

スペインだと思ったら実はバルセロナだったという人は日本に多い、その一方でその区別がつく日本人が実際どれくらいいるだろうかといえば特に差はわからないだろう。

 

彼ら、彼女らは世界に出れば自分たちがスペイン人だと見なされることを知り、そしてカタルーニャの小ささを思い知る。そして現実にスペインの一部であることの利点をも考え直すことになる。

 

実際カタルーニャ州は軍事力を自力でそろえておらず、経済的にはスペイン内で良好だと言えども一国として独立するとなれば「国家」としての責任が増える。

カタルーニャ独立派の意見は「経済的優等生のカタランが怠惰なカスティージャに搾取されている」というものだが、果たして現代国家として運営していくとなった場合現在持つ利点を失うことを考慮していないようにも遠く離れた極東の日本人としては感じる。

端的に言うならば気に入らない地元の実家でも家賃を払わなくていいのはマシだという話で、カタルーニャが独立するならば自分の負担は増えてしまう。

 

その上FCバルセロナというサッカーのクラブチームはスペインリーグに在籍しておりレアル・マドリードと覇権を争っているから魅力があるわけであり、その構図が無くなれば魅力は半減する。

自分自身レアル・マドリードを憎むふりをしていながら実際はその殺伐とした対立構図を楽しんでいる立場だ。いわばウィンドウズ社とアップル社のファン同士が自国の会社でもないのにいがみ合っているのと同じで、日本人の自分には真にカタルーニャ民族主義の神髄を理解し得ない。おそらくそれは日本におけるバルセロニスタのほとんどに共通することだろう。

 

口では「アラ・マドリー!」「ビスカ・バルサ!」と言っておきながら本当にその文化風土を理解しているわけではない。あくまで海外サッカーファンのほとんどがファッション感覚であり、自分自身その一人でしかない。

いわば異国情緒に幻想を求める脳内の外国人ごっこなのだ。

中にはこの歴史問題すら理解せずただロナウジーニョやメッシに惹かれてバルセロナを応援している人は多く、しかも世界的に見ればそれがスタンダードだ。

 

正直この話はスペイン人でもなければ、カタルーニャ人でもないのでわからない。わかったふりをしていながら、自分も正直分からない。

スペインの二大都市バルセロナマドリードの風の香りの違いを肌身で彼らは理解している、まるで大阪の人が東京にやってきたとき「たこ焼きやお好み焼きのソースの香りが足りない」と感じるように、そしてもんじゃ焼きの美意識センスの低さを嘆きながら結局は「やっぱ好きやねん」と関西に帰るように。

 

その地域の人々だけが理解する感覚がどの世界にもある。しかしそれは外部から見れば微妙な差異に過ぎない。

ジローナの選手やサポーターが「小さなチームでも世界王者を破れると世界に証明した」「これは暴力無き意思表明」と語ったところで、結局は東洋人にとっては他人事だ。ただそれを最初から理解できないと拒めば世界は狭くなってしまう、そういうとき自国や近隣諸国の問題にたとえてみれば少しだけ理解の助けになる。

 

例えば興行的に国内で絶対的な地位を築けていないJリーグやKリーグ、投資に対して相応の見返りを得られていない中国スーパーリーグ、決定的な浮上の中々見出すことのできない東南アジア諸国のリーグ、これらのいくつかを統合してアジア的なサッカー文化を作り上げようとする意見もある。

イングリッシュプレミアリーグへのウェールズからの参戦やMLSへのカナダに本拠地を置くクラブの参戦などのように近年はこういった統合が進んでいる。

 

その一方でスペインは複雑な歴史問題からリーガ・エスパニョーラからのFCバルセロナの離脱寸前にまで事態が進んでいる。

 

しかし「打倒するべき対象」を失ったとき人々は空虚になるのも事実だ。

今回ジローナFCがレアル・マドリードを打ち破ったときのカタルシスを、今後彼らはどこで味わえばよいのだろうか。仮にカタルーニャが独立すれば「憎き宿敵」に土をつけた喜びを得られない。

「必要悪」とでも言えばよいのだろうか、複雑な地域問題を抱えるスペインにおいて少なからずレアル・マドリードはそういった役割を果たしてきた。そしてそれがリーガ・エスパニョーラの競争力に貢献してきた側面がある。

バルセロナやジローナだけでなく、アスレティック・ビルバオもグローバリズムの中強固な民族主義を維持し素続けてきたため今ではそれが独自の魅力となっている。

 

世界的に見てそれほど経済的規模や軍事力、文化力において存在感を持つ国ではないスペインが、サッカーにおいてはこれだけのブランド力を維持できているのはこういった問題がある種のエキゾチシズムを喚起させているからなのではないかと推測する。

 

もはやスペインにおけるサッカーの価値はゴヤ、セルバンテス、ミハイル・ダリ、そしてパブロ・ピカソよりも大きい。闘牛が国際的な動物愛護団体から非難を受け縮小しつつある現代において、サッカーは間違いなくスペイン特産のコンテンツと言えるものだ。

国内の年間視聴率トップ10を全てサッカーが独占する国においてこの貴重な世界的コンテンツを逃すことはあってはならないことだというように日本人としては感じる。

 

しかしそれはクロアチア人がこれ以上セルビア人と一緒に同じ国を維持していくことができないと考えたような構造に近い。

日本人感覚に置き換えてみれば台湾、韓国、北朝鮮(朝鮮民主主義共和国)、満州(中国北東部)、モンゴル、パラオとこれからまた一つの国家としてやっていこうとするときに感じる壁が彼らにはあるのかもしれない。

 

島国の日本どころか、大陸続きで民族同士の交雑が進んでいる欧州においてもこういう意識が存在することを見れば非常に根深い問題だと感じる。

前述のバルセロナからの観光客のようにカステジャーノであるかカタランであるかをそれほど意識しない人々も存在するが、彼らは総じてフランコ独裁を知らない世代のように見えた。2008年のEURO制覇以降スペインは一つの国としてまとまり結果を出すことに目覚めたはずだった。

 

しかし依然として独裁政権下で独自の言語や文化を禁じられた思いを共有する世代がカタルーニャやバスクに存在することも事実だ。

更に言えば日本同様欧州各国でも少子化が進んでおり新しい世代が主役になりにくいという構図がヨーロッパの地にも存在する。

 

その一方でそういった歴史や民族の問題も含めてリーガ・エスパニョーラの競争力に大きく貢献してきたことも事実だ。

レアル・マドリードとバルセロナのダービーほど世界を熱狂させる争いは存在しない。仮にリーグにおいて分別されてしまえばマンチェスター・ダービーがプレミアリーグの興行力を生かして世界的なコンテンツに育つだろう。

エル・クラシコよりもマンチェスターダービーのほうが価値がある存在となれば、スペインリーグにどれほどの価値が残るだろうか。

スペインサッカーのライバル対決はよりローカルなものになり忘れ去られる。

 

正直なところ自分自身、このクラシコの構図が消滅すれば以前ほどスペインサッカーに対する情熱を維持できないだろう。

それはおそらく世界中のマドリディスタとバルセロニスタに共通している。

真のカタルーニャ人でもなければフランスリーグに所属したり、在籍選手のスケールが小さくなったりしたバルセロナにそこまで大きな情熱を注ぐことができない。

 

レアル・マドリードとアトレティコ・マドリードのライバル対決は確かにスペインの事情に詳しい人ならば理解できるかもしれないが、それはローカルなスペインの中で更に局地的なイベントとなる。

仮に独立後チャンピオンズリーグで激突することになったとしてもその頃にはお互い「他人」になっていて意識もかつてほどはすることが無いのではないかと予想してしまう。

嫌よ嫌よも好きのうち、確かにクリスティアーノ・ロナウドとリオネル・メッシはお互いの存在が無ければこれほど成長できなかったと語っている。それを100年単位の歴史で行ってきたのがレアル・マドリードとFCバルセロナだ。

 

こういった遺恨がある試合の方がサッカー的には面白い。

「サッカーに政治を持ち込まず、平和のためにスポーツをしよう!」というのは完全に綺麗ごとでしかなく実際は対立構図があり殺伐としているから人々は観戦しようとする動機を持つ。

「平和のために!」と叫ぶ人たちが一番政治を持ち込んでいることもまた事実であり、時としてこういった複雑な事情が絡むスポーツを超えた試合の方が興味をそそることもある。

 

例えばFC東京と川崎フロンターレのダービーマッチを「多摩川クラシコ」と表現しているがこれはどうも無理やり感が否めない。正直なところ特別見に行きたいとも思えないしまだ浦和レッズとガンバ大阪の試合の方が興味をそそられる。

 

そういった無理やり感のある対立構図に対して、松本山雅と長崎パルセイロの信州ダービーは「遺恨」もあって殺伐とした雰囲気を期待できる。クラブの創設経緯か何かだが、とにかく彼らの間には絶対に相容れない事情があるらしい。

そういった好奇心をそそられる「濃い人が集まってそうな殺伐とした試合」という憧憬は、多摩川クラシコよりも信州ダービーに感じる。規模だけでは語れない熱量がそのスタジアムにはある。

 

日本VS欧州の中堅国には惰性のようで大して応援に熱が入らないが、日本VS大韓民国となると愛国心や自国のスポーツへの関心を忘れかけているときですら情熱が再起させられる。それは不思議なもので、政治信条ともスポーツとも言えない特殊な感情がある。

 

ある意味でその最大限のライバル構図を一世紀以上の歴史において築き上げてきたのがエル・ブランコ(白い巨人)のレアル・マドリード、ブラウ・グラナ(青と臙脂)のバルセロナだと言える。サッカーに限らず全てのスポーツチームにおいてこれほど過激活国際的知名度を誇るライバル対決は存在しないと言っても過言ではない。

 

いざバルセロナサポーター、バルセロニスタとして忌まわしい宿敵のレアル・マドリードやマドリディスタを失えばどこにモチベーションがあるのか。

日韓戦のライバルである韓国がいなくなればそれはそれで物足りない。

「サッカーにおいてはオーストラリアがライバルでいい」と言われながらも、オーストラリアに勝った時のカタルシスは日韓戦で勝利したときほどの喜びが無い。それは韓国人も同じだろう。イラン代表や中国代表に勝っても「なんか日本に勝った時ほど楽しくない」と思っているはずだ

 

このカタルーニャ独立問題の行く末は日本人の自分にはわからない。

それは彼らが自分自身で下す決断にゆだねられている。

しかしどこかタイミングで「レアル・マドリードに勝った時の喜び」が無い事への喪失感を意識する時が来るのではないかと想像する。

旧来からのバルセロニスタ「パリ・サンジェルマンに勝ってもねぇ、忌まわしい白いアイツらが恋しいよ」

なぜだか数年後カタルーニャのバルでそんな一言が聞こえてきそうな気がする。